■アンシェヌマン・・・1章・2



公演まで後僅か。

来週にもなれば合同練習が頻繁になる為、夏樹は個人練習の大詰めにと鈴原バレエスタジオに来ていた。

「もっとメリハリをつけて」

容赦のない指導の声が、レッスン場に響き渡る。

指摘箇所に意識をむけれど、音楽が止まってくれる訳ではない。

流れ続けるメロディーに焦りを感じてしまう己にこそ焦ってしまう。

それでも、タイミングを逃さず床を踏込み高く飛び上がった。

「っ……」

バレエに完成も正解もないと思っている。

だが、無いそれらに少しでも近づこうと、何年も同じ振付を踊り続けてはより高みを目指すのだ。

毎日の所属バレエ団でのレッスンと自主的なレッスンの他に、それ以上の指導を欲した時に夏樹はこのスタジオに来ている。

鈴原バレエスタジオは小泉バレエ団でダンサーをしていた鈴原聖司[すずはら・せいじ]が独立し立ち上げたスクールだ。

バレエスタジオとはいえ、子供や初心者もターゲットにしている小泉バレエ団付属のバレエスクールや街中で多く見かけるそれではなく、ある程度のレベルを持つプロやそれに近しい人を専門としている。

月謝や固定のレッスン日はなく、完全予約制でグループレッスンか個人レッスンをチケット制で行っており、夏樹は大抵平日の一番遅い時間に個人レッスンをお願いしていた。

鈴原は夏樹の憧れだ。

小泉バレエ団に居た頃は同じ舞台に立てるだけで嬉しく、今でも彼の出演する舞台があると聞けば見に行き、少しでも鈴原に近づけるようにと思っている。

「っ……はぁっ」

「随分と良くなった。タイミングも合うようになってきている。だがその分表情が硬い」

「はい」

曲が終わり乱れた呼吸を整え、夏樹はレッスンバーの下に置いていたスポーツボリンク入りのペットボトルを手に取った。

やはり一人でレッスンをするのとは全く違う。

鈴原の踊りもさることながら、その指導も夏樹は好きだ。

もっとも、好きなのはそれだけではない。

身長は180cm以上。

スラリとした体躯にダンサーらしく引き締まった身体。

そして、口元に笑みを浮かべた甘い面立ち。

年齢は三十代半ばだったと記憶するが、それでも尚貴公子然とした雰囲気の持ち主。

初めて舞台で鈴原を見た時、夏樹はそれまでに受けた事もない衝撃を感じたと今でもはっきりと覚えている。

その時の想いは紛れもない尊敬と憧れであったが、それはいつしか形を変えていった。

今でも尊敬をしているし、憧れてもいる。

だがそれとは別に、夏樹は鈴原に恋慕の情すらも抱くようになっていた。

「もう一回やって今日は終わりだ」

「はい」

レッスン場の隅、舞台の袖に見立てた位置に立ち鈴原が曲を鳴らすのを待つ。

今日の最後。

ならばより一層美しくと、夏樹は唇を結ぶ。

バレエは圧倒的に女性の多い業界だ。

子供向けのスクールであれば、一つの教室全体でも男は一人居るか居ないか。

例え居たとしても、年齢が重ねられる毎にその数は減ってゆく。

バレエ団に所属するようになり各バレエ団からも男性ダンサーが集まる場に身を置く今でも、一公演辺りで男性は女性の10分の1以下の出演者数でしかない。

そんな女社会で育った夏樹は、思春期の頃から女性を恋愛の対象として見れなくなっていた。

普段どんなに優しげでも、その裏では互いにいがみ足を引っ張り合う。

役を取っただ取られただ、先生に贔屓をされているだと、女性らがある事ない事陰口を大声で叩き合う姿を見続けている。

女性とはそういった生き物なのだろう。

バレエをしている女性だけではなく、どの女性も全て表の顔とはまるで違う裏の顔を隠し持っている。

そう考えればこそ、恋愛感情もさることながら性欲すらも感じなくなり、夏樹のその対象は男性へと向けられていった。

もっとも、鈴原に感じている恋慕の情というのは限りなく憧れに近い部類のそれだ。

見ているだけで幸せ。

話しを出来、指導を受け、そしてスキンシップがあれば尚の事幸せ。

淡い恋心、その言葉が良く似合う。

「……っ」

「そうだ、その調子だ」

「……はぁ…ありがとう、ございます」

「ずいぶん良くなってきた。あとはもう少し余裕がほしいが伊吹なら出来るだろう」

「はい、がんばります。ありがとうございました」

先ほどと同じ言葉を、違うトーンで告げる。

褒め言葉に対する返答ではなく、レッスン終了通例のそれだ。

頭を下げる夏樹の肩を、鈴原が軽く手を置く。

極近くで見上げる鈴原は、やはり息を呑むほどの美形だ。

「公演、もうすぐだっけ? そろそろ全体練習詰まってくる頃?」

「はい。来週から結構びっちり。これ、グラン・パ・ド・ドゥなのでその練習もありますから」

グラン・パ・ド・ドゥとは、男女がペアで踊る踊りで、ペアで踊る曲とソロで踊る曲からなる4部構成である。

ここ暫くの自主レッスンや個人レッスンの時は全てソロ───ヴァリエーションを練習していたのも、今後の合同レッスンではペアで踊るアダージョとコーダに重点をおける為にだ。

夏樹の肩に手を置いたままであった鈴原は、いつのまにか肩を組んでいた。

これ程までに接近をしたのは、指導中以外では初めてではないだろうか。

「そう。今回相手役誰って言ったっけ?」

「立川バレエ団の公演で、島津さんです」

「あぁ、あの綺麗な子ね。顔だけじゃなくて性格も良いらしいね」

「えぇ、感じの良い方ですよ。ご存知だったんですね。相変わらず顔がお広い」

「噂はいろいろと入って来るものでね」

バレエ団でダンサーをしていた頃から鈴原は顔の広い人だった。

その人脈もあり、バレエスタジオを開校した今でも波に乗っているといつしか冗談交じりで話していた。

この分では彼の耳に己の根も葉もない噂も届いていそうだ、そう思った矢先である。

鈴原の手が夏樹の肩を軽く突き、レッスンバーへと追いやられ何事かと鈴原を振り返った時には、鈴原は夏樹を閉じ込めるようにバーに両手をついていた。

「え……鈴原さん?」

あまりに突然の出来事に、夏樹はただ呆然と鈴原を見つめるしか出来ない。

見上げる彼の顔が逆光ではっきりとは解らないが、ただいつもの鈴原とはどことなく違うとだけは察せられる。

困惑するばかりの夏樹に、彼はニヤリと唇を釣り上げた。

「伊吹、───俺の事が好きなんだろ?」

「な………なにを……」

「言っただろ? 噂は色々耳に入ってくるんだ。伊吹が俺の写真、財布に入れていつも持ち歩いてるって見た奴が居てね」

「それは……」

返答に詰まり、夏樹は視線を彷徨わせる。

何故、それを知っているというのか。

確かに夏樹は鈴原の言うように、彼の写真を財布に入れている。

いつだったかの舞台で彼が主役を演じた時のプロマイドで、いつ見ても息を呑むほど美しく、そして辛い時の励みになった。

だが、会計の時に横から覗きこんだ程度ではバレる事のない場所に忍ばせているのだ。

それが何故鈴原に知られる事態となったのか、誰かの故意だとしか思えない。

動揺をしているのは明らかで、夏樹は誤魔化す言葉も出ては来なかった。

笑って『恰好良かったから、お守りです』と肯定した上で受け流せば、それで済む話しだったかもしれない。

だがそうと出来ない夏樹は、赤面よりも青ざめたものを感じた。

「でも、それは……その……」

「それにお前、ゲイだろ?」

「えっ……」

「これは俺の勘。同類は解るってやつかな」

「………え? ……って事は……鈴原さんも……ゲイ?」

反射的に鈴原を見上げる。

そこに居る彼は、いつもと変わらぬ柔らかい笑みを浮かべているような気がして、ふと気が抜けた。

同類は解るらしいが、少なくとも夏樹は今の今まで鈴原がそうであるなどと気が付かなかったし、言われてみてもとても信じられない。

彼がゲイである事が嬉しいような、困るような。

見極めようと見つめてみても、ただ彼が苦笑を浮かべているとしか解らなかった。

「そうなるね。公表はしてないけど隠してもいないよ」

隠してはいないが、公表はしていない。

それをわざわざ教えてくれた彼の意図はどこにあるのだろう。

判断が付かずにいると、鈴原の細く綺麗な指先が夏樹の顎に掛けられた。

「……え?」

「夏樹、可愛いね。前からずっと見てたんだ。でも、夏樹も結構可愛い系の子が好みなんだと思ってたからさ」

「え……それって、どういう……?」

彼もずっと自分を見てくれていたと言っている。

それは、夏樹と同じ意味でだと取って良いのだろうか。

蒼白だった面もちが赤面に燃え上がり、上手く言葉も紡げなかった。

「あ、あの……」

胸が早鐘のように鳴り響き、苦しい。

もう鈴原を見ていられなくて夏樹は俯き顔を反らせた。

まるで夢のようだ。

おとぎ話を踊り続けて来たけれど、ようやく己の前にも王子様が現れたのだろうか。

そっと鈴原の胸に振れようと、夏樹は目の前へ手を伸ばしかける。

だがその指先が鈴原に触れるよりも、彼が口を開く方が早かった。

「夏樹も俺が好きだって知ってたら、もっと早くに手、出してたんだけどね」

「……手?」

「今晩これから暇? 明日は朝のレッスンの無い日だよね?」

「それって……どういう?」

「誘ってるの。解るでしょ?」

「………え?」

逆行の中微笑む鈴原が、今は獰猛にしか見えない。

いつもの上品な雰囲気などはなく、いっそ下劣で雄というものを強く感じさせられた。

今の鈴原は夏樹の知っている彼とは随分と違う。

けれど、それでも憧れていた彼である事に違いはない。

夏樹は鈴原に触れかけていた手を降ろすと、揺れる眼差しで頭上の彼を見上げた。

「……俺、ワンナイトラブはしない主義なんです……けど」

「なに? それ?」

「えっと、その……やるなら、きちんと……」

身体だけの関係になるのは嫌だ。

関係を持つなら、きちんと交際を約束をして欲しい。

それは夏樹にとって当たり前の事で、恋愛やSEXに異性愛と同性愛の違いなどないと考えている。

恋人でもない相手とSEXをするのを良しとは思えない。

夏樹は鈴原を真摯に見つめたが、一瞬の後、その場は彼の笑い声で溢れていた。

「いかにも真面目そうだと思ってたけど、やっぱり夏樹って真面目なんだな。あ、もしかして童貞?」

「……っ、な……」

バーからも夏樹からも手を離し、鈴原は腹を抱える。

何がそんなにも面白いのか、夏樹には理解が出来ない。

一晩きりのパートナーでは嫌だと思う事は、そんなにも笑われなくてはいけない事なのか。

少なくとも、鈴原にとってはそうなのだろう。

つい今しがたまで赤面を浮かべていた面持に、青筋が浮かぶ。

夏樹は咄嗟にスポーツタオルとペットボトルを手に取ると、大股にレッスン場の出口へ歩き出した。

「おい、夏樹」

「今まで、お世話になりました。あなたの踊りもご指導も、とても好きでした」

舞台で一曲を終えた後にするように、丁寧に頭を下げレヴェランスをする。

踊りも指導も好きだったけれど、人として、それ以上にSEXの相手として、とても意見が合うとは思えない。

結局、夏樹が見ていた鈴原はおとぎ話の中の王子様、舞台の中にだけ居る幻影だったのだろう。

腹立たしいのは、鈴原に対してではなく本質を何も見れていなかった己にだ。

隣接する更衣室に駆け込む。

鈴原が追いかけてくる気配はない。

けれど、もう此処には少しも居たくはないと、Tシャツにジャージ姿のレッスン着の上にジャケットだけを羽織ると荷物をバッグへ詰め込み、夏樹は何も見ないように俯きながらスタジオを飛び出したのだった。





  


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