■アンシェヌマン・・・1章・3



苛立ちや腹立たしさを抑えられないまま、夏樹は俯き加減に早足で歩いていた。

とにかく今は此処から離れたい。

夏樹の移動手段の多くは車だが、あいにく鈴原バレエスタジオには駐車設備が無くコインパーキングも近くにはない為電車で通っている。

駅までの道のりを急ぎ、レッスンバッグを肩に担ぎ直す。

コーヒーが飲みたい。

出来れば煙草も吸いたいが、やはり此処から早く離れたいという気持ちが一番強い。

さっさと駅まで行ってしまえば少しはこの荒れ立った感情に余裕を持つことが出来るだろうか。

当然のように鈴原は追いかけても来なければ、携帯電話が着信に震える事もなかった。

苛立たしさや腹立たしさ、それに加え虚しさも夏樹を襲う。

鈴原にとっては所詮その程度の相手だったという事だ。

街灯が少なく薄暗い住宅街の路地をつま先ばかりを見て歩く。

「っ………ぁ」

注意力の散漫は、言い訳の出来ない状態であった。

「……おい」

「……え?」

何かにぶつかり、身体が大きく揺らぐ。

それが人、それも体格の良い大人の男であると気が付いた時には───夏樹はその男に腰を支えられていた。

「ぁ……」

反射的に男を見上げると、そこに居たのは鋭い眼差しが恐ろしいまでの、いかにも真っ当な勤め人には見え難い男であった。

夏樹や鈴原にしても到底勤め人には見え難い風体で、事実そうではない。

だが、この男はその夏樹らとも全く違う人種───暴力団員かそれに近しい者に思えた。

闇夜の中はっきりとは解らないが、黒系統のスーツと同色のシャツ。

ネクタイは付けておらずシャツは開襟。

そこから覗く首は惚れ惚れするほど逞しく男らしく、そのうえ身長も夏樹よりも高く、肩や胸はスーツが栄える程見事な体躯。

そうとまで見定め、ようやく夏樹はハッと我に返った。

「おい、お前」

「あ、はい。すみません。あの、ありがとうございます」

よろけながら男の腕から離れる。

足元ばかりを見て歩いていたので気が付かなかったが、どうやらここはマンションのエントランスに面した道路のようだ。

そして此処にはこの男の他にも、いかにも厳めしい形相の男らが数名、揃いもそろって黒いスーツに派手なシャツとネクタイを付けて立っている。

ただ唇を結び立っているだけでも恐ろしいというのに、夏樹がぶつかったこの男を取り巻く男らの視線は、痛い程に夏樹に突き刺さっていた。

「えっと、あの、すみませんでした。俺はこれで……」

「ちょっと待て」

「は、はい」

みっともないまでに声が裏返った。

初めてまともに夏樹の耳に届いたその男の声は、外観に相応しい低音ボイスの美声だ。

低く唸るような男の制止に、夏樹は無意識の仕草で背筋を伸ばした。

「お前、人にぶつかっておいてそのまま帰るつもりか?」

「えっと、それは、すみませんでした。……それだけじゃ、だめ、ですか?」

「すみませんで済んだら警察はいらねぇって、聞いた事ないか?ん?」

男の手が夏樹の腕を掴み、その手もまた無駄な肉がついていない筋張った男らしい手だ。

しかし、もうそのような余計な事を考えている余裕は夏樹にはない。

「えっと……それは……」

「俺の部屋で話そうか。何、大人しくしてれば、悪いようにはしねぇよ」

「それって、どういう……あっ」

強引に男の手が夏樹の腕を引っ張る。

ここで連れて行かれては、『悪いように』されない訳がない気がする。

けれどこの男も、周囲に立つ男らも、いかにも恐ろしげな彼らの存在が目先の恐怖となり夏樹から抵抗心を奪った。

「安心しろ、部屋には俺とお前の二人きりだ」

到底安心など出来はしない言葉を残し、男は夏樹の腕を引いたままマンションへと入って行く。

その後方では、男らが一斉に頭を下げたのだと夏樹は視界の端に見たのだった。



  


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