■アンシェヌマン・・・2章・1



バーを握った男女が曲に合わせて背を反らす。

しなやかな身体は足を上げても腕を伸ばしても美しいが、全員の動きが揃っているからこそそれはより一層引き立てられる。

流れる音楽よりも大きな声で、鋭く講師の声が飛ばされた。

「そこ、後ろ首!呼吸は止めない!お腹!」

言われる言葉は何年踊り続けても習い始めたばかりの小さな子供と変わらない。

それは踊り手に学習能力がないのではなく、基礎こそより完璧にと問われるからだ。

バーに掛けた足に向け胸を倒し、伊吹夏樹[いぶき・なつき]は腹の底から息を吐き出した。

ここ暫くは公演のリハーサルが忙しく、夜の通常レッスンに参加をするのは久しぶりだ。

毎日出ている午前中のレッスンとは違い、夜のレッスンには午前中は来られない学生の団員も居り、若い力は刺激を与えてくれた。

「バーを持つ方の肩を上げない。肩甲骨を広げるように」

夏樹の生活は、相も変わらず朝から晩までバレエを中心に動いている。

レッスンにリハーサル、それから舞台。

今月に入ってから既に2回の公演に出演し、来週末も他のバレエ団公演に呼ばれている。

それは今も以前もなに一つ変わらない。

けれど、些細な変化は確実に起こっていた。

数週間前夏樹の前に現れた、獅子牡丹の刺青を背負うヤクザものの男。

彼───黒川仁[くろかわ・じん]は夏樹との『約束』を守り続けていた。

連絡を寄越してくるのはいつも黒川からで、夏樹が彼を呼び出した事は一度もない。

そして、今のところ黒川からの誘いを夏樹が断った事もなかった。

週に一度会うか会わないか、長い時は10日以上間が空いた時もある。

どうしても彼に会いたいと思っている訳ではない。

ただ、彼から呼び出された時は偶然予定が空いているだけだ。

それが嬉しいのかそうでないのかはっきりと言葉には出来なかったが、けれど呼び出されれば会い、そして身体を重ねている辺りそれが答えのようにも思えた。

「センターバーを片付けて。4人づつね」

あれは黒川と三度目に会った夜の事だ。

車で黒川の家に向かう途中、運転席に座っていた彼は信号待ちの隙に無言のまま夏樹の膝へ一冊の薄い本を放った。

本を放られた事に驚く暇もない。

なぜこれが此処にあるのかと呆然とするばかりで、直ぐには何も反応が出来なかったと今でもはっきり覚えている。

黒い表紙の中央で白い衣装を纏った女性がポーズを決めているそれは、夏樹が最近立った舞台のプログラムであった。

無言でそれを渡す辺り小憎たらしいが、黒川らしいようにも思える。

つまるところ、何をどうやったのかは知れないが、夏樹の素性が黒川に知られたという事だ。

けれど黒川は一切、夏樹がバレエをしているという事に対しても、それを今まで『スポーツだ』と嘘を吐いていた事に対しても何も言っては来なかった。

責められも笑われもせず、ただ夏樹の隠し事が黒川に知れた───夏樹の背負っていた秘密事が無くなった、というのはなんとも気楽になれた。

今、黒川との関係を表すならば、SEXフレンドと呼べるだろう。

否それ以外の名称など思いつかない。

ワンナイトラブは嫌だと言った。

けれどそれは、決してSEXフレンドが欲しいという意味ではない。

こんな筈ではなかった。

黒川と知り合って以来何度その言葉を胸の中で繰り返した事か。

「夏樹。首の角度が甘い。それにテンポ遅れない」

「・・・っ」

曲に合わせ夏樹は高く足を上げる。

踊っている最中だけは、黒川の事を忘れる事が出来た。






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