■アンシェヌマン・・・2章・10



頭から浴びた熱い湯は、全身どころか心まで包み込んでくれるくれる気がする。

瞼を閉ざし顔面からシャワーを浴びると夏樹は肩で息を吐いた。

黒川に連れ込まれたホテルで翌朝いつもと同じ時間に夏樹は起床したが、その時には既に黒川の姿はなく、それどころかメモ一枚残っていなかったがいつもの事だ。

黒川の自宅で目覚めた朝ですら彼が先に出かけてしまっているという日はある。

「あー・・・帰らないと」

今日も朝からレッスンがある。

一旦家に帰りレッスンバッグを取らなければならないのだから早く動かなくては。

そうは思えど、どうにも身体が思うように動いてはくれなかった。

起きた時から絶えず考えてしまうのは黒川の事。

あの面立ちが、眼差しが、声音が、頭から離れなくて仕方がない。

振り払おうととしても振り払えない幻影に、夏樹はため息を吐くしかなかった。

「仁・・・」

昨日舞台の上から見た黒川らしき人影。

彼は自身ではないと否定したけれど、それを素直に信じる事は出来ない。

だいたいにおいて、全席指定の公演であのような場所に立って見ている自体珍しいのだ。

そのような事を一般の観客がするとは思えない。

けれど、それが黒川であればどことなく納得出来る気がした。

「・・・はぁ」

更衣室に届いていた大きく豪華な花も、打ち上げ会場まで迎えにきた行為も。

一つ一つが折り重なり、そして交じり合ったベッドの上で気が付いた。

黒川が、好きだ。

今までもきっと黒川の事が好きだったのだと思う。

しかしそれに気がつかないように、見ないようにと故意に目を反らせていたのだろう。

「ほんと、行かないと・・・」

どれ程そうとしていただろうか、コックを捻りシャワーを止めた夏樹はパウダールームへと出た。

予め用意をしていたタオルで全身を拭う。

そうして鏡に映った己を、夏樹は見つめた。

「何、やってんだろうな」

相手はヤクザで、背中にはそれは見事な刺青も入っていて。

名前と年齢と携帯番号と、その程度しか教えられていなくて、二人の間には会話も少なくて。

そのような相手を好きなどと馬鹿げている。

「・・・」

けれど、そう胸に浮かんだと同時に夏樹の中で何かが自分自身を否定した。

確かに教えられた事は少ない。

だが、知っている事ならば他にもある。

黒川の車は黒のレクサス。

ワインは白よりも赤を好むが、ワインよりも焼酎が好き。

魚よりも肉が好き。

煙草はいつも同じ紺色の箱で、ライターはシルバーのオイルライターを愛用しているが時折使い捨てライターを使っている時もある。

口数は決して多くはないが、口元に笑みを見せる時もある。

他にも、よく考えればもっと知っている筈だ。

SEXから始まった、SEXを中心とした二人の関係。

しかし決してそれだけではない。

黒川が好き。

もう、自分自身の気持ちを偽る事は出来はしないし、なかった事にも出来はしない。

「・・・でも、言えないよな」

乱雑に髪をタオルドライし、ドライヤーで乾かす。

ドライヤーの送風音が、他の音をかき消していった。

「もう、いいか。これで・・・」

いくら自分自身の気持ちに気づけたとしても、それを相手に伝えるか否かは別問題だ。

黒川は夏樹を性の道具としか見ていないのだろう。

SEXをする為だけの関係。

それが二人を繋ぐ唯一の名前であったのだ。

「・・・考えてても、仕方がないよな。もう、いいよ」

着慣れないスーツを、スラックスとシャツだけを楽に着る。

残りの衣服は舞台用の道具を入れたバッグに詰め込み、帰宅の支度を整えると夏樹は携帯電話を見つめた。

もしも黒川にこの想いを告げれば、彼は何と言うだろうか。

もしかすると想いを受け入れて貰えるかもしれない。

だがそうと考える何倍も、否定され笑われ呆れられるのではないか、たかだかSEXフレンドの分際で思い上がるなと言われるのではないか、そう思えてならなかった。

黒川と出会う数分前。

長い間夏樹が憧れていた男は、ワンナイトラブはしない主義だと言った夏樹を大層笑い飛ばした。

彼の笑い声を思い出せば、胸の中に宿った黒川への想いが苦しくなる。

所詮男同士。

身体の関係があってこそ。

それ以上はきっと、重く思われるだけだ。

黒川に想いを否定され、邪険にされるなど夏樹には耐えられそうになかった。

「・・・仁」

見つめていた携帯電話を取り上げる。

指先で操作しアドレス帳から黒川のそれを呼び出すと、タッチ一つで『消去』ボタンを表示させた。

「・・・今まで、ありがとう」

楽しく、幸せだった。

けれどもう、『SEXフレンド』には戻れない。

片思いの相手と行うSEX程切ない物はないだろう。

消去を、確定する。

鈴の鳴るような小さな機械音と共に、黒川のアドレスは夏樹の携帯から消え去った。

「バレエがあれば、それで良いよ。さ、早くしないと遅刻してしまう」

現実はおとぎ話のように甘くはない。

自分だけの王子様などこの世には存在しない。

大きなバッグを担ぎ上げ、夏樹は客室を後にした。

ホテルの廊下のBGMに混じり、アダージョのが終わる音を聞く。

早足で廊下を歩きながら、それはとても切なく夏樹の胸を締め付けたのだった。




[三章につづく]








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