■アンシェヌマン・・・2章・3



それから暫く、黒川から連絡がなかった。

だが不思議と特別な事だとは思わなかったし、不安にも感じはしない。

ただ黒川の都合の悪い日が続いているのだろう、またいずれ連絡は来ると、夏樹は何の根拠もないままそう思えていた。

もっとも、それは夏樹にしても忙しい日が多く、たとえ誘われても会えなかった為に割り切れたのだろう。

近々に控えていた公演のリハーサルに加え、まだ数か月先の舞台のリハーサルの日程も重なってしまい、ここ数日は身体を休める暇も無かった程だ。

「・・・こんなもん、かな」

鏡を見つめ顔にペンを走らせていた夏樹は、一息をつくと手を休めた。

厚めのファンデーションに覆われた顔から首そして身体。

眉毛も瞼も濃い色を重ねられた鏡の中の己は、ある意味見慣れた顔だ。

これもバレエ公演の為の一部だと、舞台メイクは手慣れたものである。

ジェルで固めた髪に青い羽根のついた髪飾りを固定していると、ふと後方から鏡越しに男の姿が目に入った。

「お、完成?いいね、伊吹のブルーバード」

「・・・ぁ。近衛さんにそう仰って頂けると照れますね。近衛さんのカラボスもカッコいいです」

鏡から視線を外し、夏樹は身体ごと振り返る。

そこに居た男・近衛裕[このえ・ゆう]は、椅子に座る夏樹を見下ろし悪戯っぽく笑った。

男性ダンサーは3・4人で一部屋の楽屋を使用する場合が多い。

元々女性優勢の世界だ。

割り当てられる部屋も少ない。

プロの男性ダンサーの数そのものが少ない為、様々なバレエ団の舞台に出演してもそこで会う顔ぶれは顔見知りが多数だ。

この近衛にしてもそうで、所属するバレエ団は違えど三回に一回以上は同じ舞台に立っているのではないかとすら思えてしまう遭遇率である。

もっとも、近衛は夏樹とは違い主役やそれに匹敵ポジションのベテランダンサーだ。

今回の役所であるカラボスも、悪役のボスであり重要度は高い。

悪魔に扮した黒いマントに身を包んだ近衛は、メイクもまた悪魔のようなそれだ。

一方夏樹は、上半身の胸元が大きく開き胸と腕に青い羽根をあしらった全身タイツと同じく青い羽根を模した髪飾り姿である。

「俺、近衛さんのブルーバード好きです。また見たいです」

「そう?ありがとう。でももう無理無理」

近衛が笑いながら、片手を振る。

その眼差しは今の装いに似合わずなんとも爽やかだ。

「ほら、言うでしょ?ブルーバードは若者がする踊り。俺にはもうキツイわ」

「そんな」

「そういう訳で、今後はまだまだ二十代の伊吹くんに期待、ってとこかな」

冗談めかして言った近衛は、軽く夏樹の肩を叩いた。

ブルーバードの踊りはその名が示すように鳥をイメージしており、他の踊りに比べてジャンプが多い。

その為、『年を重ねれば辛くなる』という理由から近衛が言うように『若者がやれ』という傾向にあるようだ。

思い返せば夏樹が近衛のブルーバードを最後に見たのは数年前だっただろう。

「じゃぁ、俺先行くわ」

「あ、はい。俺も直ぐ行かなきゃ」

準備を終えた近衛がマントを翻し楽屋を出て行く。

それを見送り、夏樹はメイク道具を片付け始めた。

「・・・はぁ」

今日の公演が終われば日程は少し楽になる。

そうすれば、初めてこちらから黒川へ連絡を取ってみるのも良いかも知れない。

その時黒川は喜ぶか、もしくは鬱陶しく思うか。

それは未知数だ。

黒川の趣味嗜好も、それどころか考え方の一旦も、夏樹にはまだよく解らない。

ただ知っているのは、黒川が男を抱く時の手つきと腰つき。

それと囁く低く腰に響く声。

それだけだ。

「・・・仁、か」

唇の中で呟いた、黒川の名。

それはどこか不思議な響きを持ち、心が落ち着く気がした。

今日も大丈夫。

舞台に失敗はない。

無意識のうちに眺めていた携帯電話から無理に視線を外し、夏樹は化粧台の前から立ち上がると一人きりの楽屋を後にしたのだった。


  

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