■アンシェヌマン・・・2章・5



それからの夏樹は気が動転して仕方が無かった。

出来るなら、今すぐにも楽屋に戻り携帯電話に触れたい。

そこに黒川からなんらかの連絡が入っているか、そうでないならこちらから彼に事実を確認するかをしてすっきりとしてしまいたい。

そうは思えど、現実はまだ舞台公演の真っ最中でそのような事など到底出来はしなかった。

ブルーバードの最後にペアで踊るコーダを終えれば、楽屋に戻る程の時間も無いまま数曲を待って第三幕のコーダが始まり、そして演目そのもののコーダへと続く。

動揺をしていても、それでも夏樹はなんとかプロの意地とプライドでミス一つ無く舞台を勤め終えた。

舞台の上でまで黒川の事ばかりを考えてしまっていた訳ではない。

むしろ踊りながら他の事を考えるなど器用な真似は出来ないのだが、しかし舞台上で己のパートでは無い時はふと舞台正面の出入り口にばかり視線を注いでしまった。

そこに何を期待していたのだろう。

しかし幸か不幸か7回のカーテンコールが終わるまで、正面の扉どころか客席のどこからも光が漏れる事はなかった。

「お疲れさまでした」

「お疲れさま!」

舞台の一番前で最後まで客席に頭を下げていたプリマが顔を上げると、振り返り晴れ晴れとした声を張り上げた。

それを合図に双方から同じ言葉が飛び交う。

これでアンコール含む演目の全てが終わり、今頃客席にも電気が灯されている筈だ。

舞台の後方が立ち位置となっていた群舞のダンサー達が足早に楽屋へと戻ってゆく中、主役級の女性ダンサーとゲストである男性ダンサーはのんびりとしていた。

人波が去った頃に戻れば良いという風潮はいつもの事で、今は互いに労いを交わしあっている。

舞台が終われば皆同士。

特に同業者自体が少ない男性ダンサーは相手を誉める事も一つのコミュニケーションだ。

普段ならばその中に夏樹も居ただろう。

だが今日に限っては、到底『のんびり』などとしていられる心境ではなくて、プリマの女性と話している近衛らを横目に夏樹は早口に挨拶だけを残し楽屋へと下る階段へ駈け出した。

「あ、すみません。すみません・・・」

夏樹は身軽だが階段を塞いでいる女性ダンサーの多くが横に広がった特有のかさばる衣装を着ている。

彼女達も夏樹に気が付けば道を開けてくれるものの、それでも張ったスカートが進路を邪魔した。

やはり楽屋に戻るのは一波去ってからが賢いと改めて痛感する。

それでもなんとか楽屋のあるフロアに到着すると、歩みを止めないまま夏樹は一つため息が漏れた。

階段を下りても楽屋まではもう一息だ。

出演者が一斉に戻ったせいで込み合ったフロアは、更に開演前には無かった折りたたみタイプの会議机が廊下に並べられ道幅を狭くしている。

楽屋の前に置かれたその机にはそれぞれその部屋の出演者宛の花や贈り物が並べられている。

小振りな花は親戚や友人からの物で、一回り大きな花は他のバレエ団や関係施設からの物だろうか。

女性は舞台に上がる回数が少ないのでここぞとばかりに花や贈り物が集まるようだ。

男性は男性で、舞台に出演する機会が多いからこその関係からの贈り物が届けられる。

もっとも、どちらにせよ盛況なのは主役クラスだ。

自分には関係ない、と夏樹が楽屋に入ろうとした時、その隣に置かれた机の上に一際大きなフラワーアレンジメントの花篭を置いたばかりの女性が夏樹を見て笑みを向けた。

「伊吹さん、お疲れさまです」

「ありがとうございます」

フォーマルなスーツを着ているのはこのバレエ団の団員だが今日は受付をしている女性だ。

しかし今は立ち話をしていたい気分ではない。

挨拶もそこそこに夏樹は中へ入ろうとドアノブに手を伸ばした。

だが、その夏樹の様子に気づかなかったのか、その女性は追いたばかりの花を見て声を弾ませた。

「伊吹さん凄いですね。こんな大きなお花、色んな公演を見に行っても滅多に贈られている方なんていませんよ」

「・・・ハァ」

「それも企業とか団体じゃなくて個人からなんて、どういうご関係なんですか?」

「・・・え!?俺ですか?」

「え?はい、伊吹さん宛ですよ?」

呆けた表情を浮かべる彼女に、夏樹は呆然とする。

ハッとして慌てて花籠の中を見ると、そこにははっきりとした毛筆で『祝・伊吹夏樹様』と書かれた札が刺さっていた。

しかしそこには、その下に本来書かれているべき送り主の名は記載されていない。

改めて見たその花篭は、籠の大きさだけではなく一つ一つ高価な花が使用されていると素人目でも解る物だ。

中央では一際大きな深紅の薔薇が何輪も飾られている。

「・・・」

心臓が、嫌な音を立てて一つ鳴った。

これは誰からなのだろう。

こんな事をしそうなのは、一人の顔しか思いつかない。

憮然として、背に獅子牡丹を背負う、男前なヤクザ。

花を見ている筈だというのに、どうしようもなく黒川の眼差しが脳裏に焼き付いて離れなかった。

「あ、あのこれって誰から贈られたか解りますか?」

花は花屋が直接持ってくる場合が多い。

だが個人が持参するケースがない訳でもなく、更に先ほど彼女が『どんなご関係ですか?』と言っていた事から、もしかするとこの花も送り主が持ってきたのではないかと思えた。

贈り主の名の無い花。

更に花屋が持ってきたのであれば、『どんなご関係』も解るはずがない。

真剣な眼差しの夏樹に驚いたのだろう。

彼女は殊更呆けて見せたが、一拍の間をおいておずおずと口にした。

「えぇ、受け取ったのも私ですから。お名前が無かったので伊吹さんにお伝えしたかったんですけど」

そんな事はどうでも良いから早く言えと気が焦る。

けれどできるだけそれを伝えないように、夏樹は張り付いた笑みを浮かべた。

「背の高い男性です。凄くかっこいい、渋い感じの人でしたよ」

「・・・っ」

「年齢は三十歳後半か四十歳くらいかな。ご存じですか?凄いですね、こんな大きなお花贈ってくださるって。伊吹さんどういうご関係なんですか?」

邪気もなく彼女が笑う。

それはやはり、黒川でしかない。

どのような関係。

そんなもの夏樹が一番知りたかった。

「えっと、・・・知人です。すみません、俺ちょっと喉乾いたので」

「え?・・・ぁ」

もう彼女に構う事無く夏樹は楽屋の中に入った。

雑談中も誰も戻って来なかった室内は、今は夏樹一人だ。

「・・・やっぱり、あれは仁さんだったんだ・・・」

背の高い、かっこいい渋い人。

二人の関係は、SEXフレンドの筈だった。

そうだとしか思えていなかった。

けれど、だというなら何故約束もしていない舞台を見に来たりなどするのだ。

「解らない・・・」

メールの着信一つ入っていない携帯電話を見つめ、夏樹は唇の中で呟いたのだった。


  

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