■アンシェヌマン・・・2章・6



舞台が終わっても夏樹にはもう一仕事が待っている。

半裸状態の舞台衣装から余り着慣れているとは言えないスーツに着替えた夏樹は、都内シティーホテルに居た。

舞台公演後の打ち上げと称したパーティーの為だ。

広い会場には立食形式の料理が並び、舞台の主要出演者や関係各人が参加している。

ドレスシャツにネクタイ飾りも付けた夏樹は、人工的なウェーブの掛かる茶色い髪にそれがよく似合っていた。

夏樹がスーツを着るのはもっぱらこのような打ち上げパーティーの時ばかりだ。

それも舞台の規模に寄っては普段着に近い格好で出向く時も多いので、今日もスーツに袖を通したのは一ヶ月ぶりくらいである。

「・・・はぁ」

舞台を終え楽屋に戻った後も、夏樹は黒川に連絡を取ってはいなかった。

この打ち上げがあるのは初めから解っていたので、たとえ連絡をとっても直ぐには会えない。

電話で長話も出来そうにはなかったので、夏樹から連絡を取れるのは少なくともパーティーを終えてからだ。

しかし、着替えている時から現在パーティーの最中に至るまで、考えてしまうのは黒川の事ばかりであった。

舞台の上で見た彼と、最後にベッドの上で見た彼。

黒川は何のつもりであのような豪華な花を贈って寄越したのか、その意図は依然掴めずにいた。

「お、伊吹。探したぞ」

「・・・近衛さん」

夏樹が壁際でシャンパングラスを傾けていると、同じくフォーマルな装いに身を包んだ近衛が姿を見せた。

長身で引き締まった身体の彼は容姿も甘く、そうしていると俳優かモデルでも通用しそうな雰囲気だ。

「菅野先生が来てらっしゃるぞ。相変わらずお綺麗な方だ」

「そうなんですか。あ、じゃぁ俺も挨拶して来ないと」

「それが良い。伊吹は菅野先生のお気に入りだからお喜びになられる」

「そんな。俺なんてまだまだですよ」

近衛の言葉に苦笑を浮かぶ。

彼が嘘を言っているとまでは言わないが、多分にお世辞は含まれていそうだ。

今日の夏樹も近衛にしてもスーツ着用なのは、この公演がそこそこの規模であり、その為にこのパーティーにも舞台関係の重鎮が招かれるからだ。

菅野もその一人で、この界隈では名だたるバレエ団の代表を務める女性である。

中年も過ぎた年齢の今は指導や振り付けにその重きを置いているが、現役時代はバレエ団のプリマドンナを勤めた女性で、今も当時の面影を存分に残しスレンダーな美女だ。

「じゃぁ伊吹にも会えたし、俺は帰るかな」

「え、もう帰られるんですか?」

「あぁ。明日も朝からレッスンはあるしね。ほら、俺は伊吹と違って年だから帰って休みたいんだよ」

冗談めかして近衛が笑う。

前半は事実だろうが、後半は建前だろう。

バレエは女性優勢の世界だ。

そのうえ、バレエを仕事としてしまえば外の世界に触れる機会は極めて少なくなる。

それでも男ならばそれなりの『遊び』をしている者も多いが、女性ばかりの世界で育ち『遊び』を知らない女性はこういったパーティーでしか男と知り合う機会もない。

そのような理由から、男は女を選び放題、逆を言えば女からの好意の視線に煩わしくさえある。

近衛が帰る───逃げる理由もその辺りにありそうだ。

普段から優しく紳士的で、なおかつ舞台上での『王子様』的イメージも強い近衛は女性から好まれるのも十分理解出来きる。

夏樹にしても彼はストライクゾーンだ。

「なら俺も菅野先生にだけ挨拶して帰ります」

「そう?今度伊吹と会うのはいつかな」

「えっと・・・あぁ、エトワールバレエスタジオのリハじゃないですか?」

「なら早速今週かな」

「いえ、今週は俺参加しないんで来週だと───ぁ」

何気なく話していた、その時だ。

夏樹のスラックスのポケットで携帯電話が震えた。

マナーモードにしているそれは着信音は鳴らず、ただバイブレーションだけを伝える。

メールならば今は無視をすれば良い。

そう思っていたというのに、そのバイブレーションはなかなか止まってはくれなかった。

「あ、すみません。携帯が・・・」

「遠慮しないで出てくれて良いよ」

「すみません」

とはいえ、電話ならばここで出る訳にはいかない。

そう考えながら携帯電話を取り出した夏樹は、その液晶画面に表示されている名に喉を詰まらせた。

「っ・・・」

「伊吹?」

「す、すみません。俺ちょっと、あの、電話、出てきます」

「あぁ。いってらっしゃい。じゃぁ俺は帰るからまたね」

「はい、また・・・」

近衛に別れの挨拶と笑みを向けながらも、そのどちらもおざなりになってしまう。

気ばかりが急いてパーティー会場から出るまでがやたらと遠く感じた。

手の中ではバイブレーションはなくなり着信が途切れたと教えたが、けれど今ならまだ間に合う筈だ。

「・・・仁さん」

液晶に表示されていた、黒川の名。

ここ数週間連絡がなかったというのに、何故このタイミングで掛かってきたのだろうか。

数日ぶりに鳴らされた彼からの着信は、嬉しさとそれ以上の動揺を夏樹に与えていたのだった。



  

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