■アンシェヌマン・・・3章・1



夏樹が黒川のアドレスを携帯電話から消去してもう直ぐ一ヶ月が経とうとしている。

その間夏樹は、一度も黒川からの着信に応える事はなかった。

初めの数日は何事もないように静かだった夏樹の携帯電話も一週間も経てば毎日のように黒川から連絡が入るようになっていたが、それでも夏樹が一度も応える事無くいると、とうとう五日前からぱったりと着信はなくなっていた。

もちろん会う事もなく、今黒川がどうしているのかは全くの不明だ。

それをどこか寂しく感じるのは夏樹の我儘以外の何物でもない。

自分から手を離すと決めた温もり。

それを忘れられないなど、また欲してしまうなど、なんとも自己中心的だ。

「・・・はぁ」

1DKのアパートでトランクケースを前に夏樹は大きなため息を吐いた。

トランクの中には数日分の下着を含む衣料と日常品、そしてレッスン道具一式が詰め込まれている。

「忘れ物は、ないかな」

これは、良い機会なのだと思う。

明日から夏樹は、二週間の日程でフランスへ旅立つ事が決まっていた。

それはつい数日前、所属するバレエ団に急きょ舞い込んできた話だ。

フランスはパリにある名門バレエ団より、短期の交換留学が申し込まれたのである。

条件は二十代の男性ダンサーで、急な申し出に予定が空く者。

元々男性ダンサー自体が有り余る程居る訳でもないバレエ団で、その条件に合う者は夏樹だた一人であった。

フランスは日本とは違いプロバレエダンサーの育成に力を入れている国だ。

夏樹がもっと若い頃にも短期留学やコンクールの為に何度かフランスには訪れているが、その度に多くの刺激を得ていた。

レベルや指導の高さも違えば、バレエ公演の多さも違い、興行をしているバレエ団の数は日本とは桁違いだ。

このタイミングでバレエの為にフランスへ行けるのはなんとも嬉しかった。

毎日、レッスンをしていてもリハーサルをしていても、ふとすれば黒川の顔を思い出してしまう。

彼に会いたい。

けれど、会いたくない。

まるで思春期の少女のような纏まらない思考で女々しくて仕方がないとは思う。

けれど、忘れようとしてもどうにも忘れられなかった。

あの腕も、胸も、声も、そして背中を彩る極彩色も、どれをとってしても他の誰とも違うのだ。

しかし、いつまでもこのままではいられない。

自分の中に残る黒川への思いを断ち切る為にも、夏樹は遙か遠い異国の地へ向かう事を決めたのだ。

「・・・ワンナイトラブでも、良いかもな」

異国の地の見知らぬ同士の一晩だからこそ、特別に熱い時間が過ごせるかもしれない。

到底本気で交際の出来ない相手であるのだから、簡単にワンナイトだと割り切った関係が築けそうだ。

まだ見ぬ引き締まった白い肌を脳裏に浮かべる。

しかしその後に訪れたのは期待ではなく、ただの虚しさであった。

黒川と最後に会った日以来、誰ともSEXをしていない。

何度かハッテン場に行き出会いを求めもしたが、特別印象に残る男すら居なかった。

どこの誰を見てもつい比べてしまう。

まるで中毒だ。

二十代半ばにして見つけた恋は、日を追う毎に重傷化をしていると認めずには居られない。

けれど、諦めると決めたのだ。

黒川とはSEXフレンド。

それ以上にはなれはしないのだろう。

「変わったな、俺」

ふと唇からこぼれた呟き。

それは夏樹に今度こそ盛大なため息を吐き出させたのだった。




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