■アンシェヌマン・・・3章・10



数歩先に黒川が歩いている。

それを現実的に感じられないまま、夏樹は空港を進み駐車場へと到着していた。

歩き出して以来、二人の間には会話は一切ない。

通路の角を曲がる時も、エレベーターへ乗る時も、黒川は当然のように進むだけで夏樹ははぐれないようにと必死になるばかりだ。

だからだろうか。

黒川に対して悶々と考える余地はあまり与えられず、ふと気がついた時には見覚えのある車が視界に映った。

黒川に似合った車だ。

何度この助手席に座っただろうか。

隣り合っていても互いに多くの言葉は交わさなかったけれど、それでもそこに不満などなかった。

初めこそヤクザ者のこの男に恐怖を覚えていたが、何度も会ううちに恐怖ではなく安堵を得ていたのだと今になり思い出した。

「・・・仁」

無意識にこぼれた言葉は、彼に届かなかったのか、それとも。

返答が返される事もないまま黒川の愛車までたどり着けば、彼は壁側まで回り関知式で開錠のされたトランクの扉を開けた。

我が物のように黒川が夏樹のトランクを引き寄せる。

その様子を夏樹はぼんやりと眺めていた。

しかし、暫くを待ったが手元まで引き寄せたというのに黒川は夏樹のトランクをそこへ上げようとはしない。

夏樹でも手元でもなく、顎を引いて何かを眺めるばかりだ。

だが彼の視線を追ってみても、そこは駐車場のアスファルトがあるばかりで特別な対象は見つけられはしなかった。

「あの、仁・・・」

軽くはないトランクだ。

黒川の手元にあるとはいえ、此処は己の手でどうにかするべきだと彼も考えているのかもしれない。

離れた距離をつめようと足を出す。

すると、それを待っていたように黒川が夏樹を見もしないまま口を開いた。

「最後に、チャンスをやる」

「・・・え?」

「このトランクを乗せるか?」

「何言ってるんですか。此処まで無理矢理連れてきて・・・」

いきなり空港に現れて、有無を言わさずトランクを奪って、理由も説明もないままに此処まで運ばれたのだ。

元から乗せる気がないのなら、電車の改札口に近い場所で離してくれれば良かったのではないか。

明らかにいぶかしんでみせる夏樹に、黒川はやはり顔を向けはしなかった。

「だから最後にもう一度聞いてやってるんだ。これを乗せたら、もう逃げられないと思え」

「・・・何ですか、それ」

「言葉通りだ。今俺と一緒にくれば、もうお前を離してやれそうにはない。それが嫌なら、今のうちに俺の前から消えろ」

「・・・ぁ」

黒川がトランクを夏樹へと滑らせる。

反射的にそれを両手で止めると、夏樹は黒川を見上げた。

今し方まで反らされていた視線がこちらへと向いているが、笑みの一つも浮かべないその面もちからは感情らしい感情は伝えられない。

黒川を見返す。

胸に、こみ上げるものを感じた。

「なに、勝手な事ばっかり言ってるんですか」

「・・・」

「此処まで無理矢理連れて来ておいて、いきなり俺に選べとか。だったらもっと前に選ばせてくれたら良かったじゃないですか」

「・・・」

「逃がさないとか、離さないとか、それ仁の言い分ばっかりじゃないですか。俺は、俺の意見は、聞いてくれないんですか?」

「だから、選べと言ってるだろ」

「ニ択じゃ、選べません」

「なんだと」

想いが胸を熱くして、言葉が詰まる。

喉も詰まり、目頭がじんじんとしている。

黒川を見つめたままトランクを脇へと追いやれば、夏樹は彼のすぐ目の前に立った。

「仁も逃げないって、離れないっていう選択肢は、ないんですか?」

一方的な言い分ならば頷けない。

もう、セックスフレンドはいらないのだ。

王子様でなくても、100年の眠りを待ってくれなくても良い。

けれどただ一人だと言って欲しい。

感情の高ぶりが苦しくて唇を噛む。

すぐ近くに居る筈の黒川の面もちが霞む感覚に陥った時、ふと夏樹の身体が揺らいだ。

「ンな事、言わなくても分かれよ」

バランスを崩す感覚は恐怖だ。

しかし背が反らされても倒れる事はなく、そこをたくましい腕が支えていると知った。

「・・・仁。やっぱり、勝手過ぎます。そんなの、言われないで分かる訳ないじゃないですか」

「俺はヤクザだぞ」

「知ってます。知って・・・此処に居るんです」

「酔狂な奴だ」

「初めて言われました」

「お前は・・・お前はもう、無断で居なくなるな。何処にも行くな。俺には、お前だけだ」

低い声が耳元で囁かれる。

抱きしめられた腕よりも流れる血潮よりも熱い言葉が、身体をどくどくと震わせてゆく。

もう、耐えられない。

どんなに唇を噛みしめても堪えられなかった滴が、夏樹の頬を伝い落ちた。

「・・・仁」

「これで満足か?・・・お前は、どうなんだ」

「こんな・・・こんな、腕回されてたら、逃げられないです」

「夏樹」

「・・・俺も、仁だけです」

無造作にぶら下がっていた腕を、夏樹は黒川へと回す。

久しぶりの感覚。

ずっと欲していたそれは、けれど今までに得たどれとも違っている。

「忘れるなよ。俺は選ばせてやったんだ。後悔しても知らねぇからな」

「後悔なんてしません。だって俺は───」

もう決めていたのだ。

フランスはパリで。

日本に帰れば黒川に思いを告げようと考えていたのだから、一番悔しいのは先をこされてしまった事だろう。

後悔をしても知らないというのは、夏樹も同じ想いだ。

通路からは死角となっているだろう場所で抱きしめ合う。

空港の広い駐車場の片隅、車のトランクの扉の前。

唇を重ね合わせたのがどちらからであったのかは、分からなかった。


  

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