■アンシェヌマン・・・3章・3



夏樹の携帯電話はグローバル対応をしていない。

日常的に海外に渡る生活ではないうえに、今回に関してはあえてそうして来たのである。

実家や所属するバレエ団はもちろん、舞台の出演予定のあるバレエ団や関係者にもその旨を伝えてきた。

それだけをすればたかだか二週間の間携帯電話がなくとも何も問題はない。

それよりも折角パリまで来たというのに黒川と繋がってしまう可能性がある方が問題だ。

此処へは彼を断ち切るために訪れたのだ、とまで考えた夏樹は、己の愚かしさにすぐさま考えを否定した。

日本を離れ約一週間が経ち、日々の忙しいまでに充実をした生活故に本質を見失いかけていたようだ。

今この地に居るのはバレエの為、自身の成長の為であり、黒川を忘れる為などではない。

ため息混じりに頭を振れば、夏樹は大きく肩で息を吐いた。

本心を言うならば、パリに来てからというものまるで黒川を忘れられずにいる。

どんなにレッスンに打ち込んでも、良い舞台を見ても、その時はそれらにのめり込めるもののふとした時に彼の面もちが思い出してしまう。

バレエの為にパリまで来たのだ。

けれど現状ではどうにも、苦いものばかりが胸を支配していた。

そのような状態で良い踊りが取得出来るとは思えない。

たとえ技術が身についたとしても、感情が踊りに追いつかなければ良いとは評価をされないのがバレエだ。

ならばいっそ本当にワンナイトラブを楽しむのもありかもしれない、と毎夜考えている。

しかしそれは考えるだけで実行は出来ず、ただ毎晩気晴らしと趣味と勉強を兼ねてバレエ公演を観に行くばかりだ。

公演の後からでも、時間帯だけで考えれば所謂ハッテンバのような場所へ向かう事は可能だろう。

しかしその公演に一人で行っている訳ではないので難しいというのも一つにあった。

『ナツキ!ごめん、遅れたかな』

『リシャール。大丈夫、俺も今来たとこだから』

一車線同士の交差点の向こうから走ってきたリシャールが、夏樹の前まで到着すると荒い息を吐いた。

群青の闇に該当がポツポツと灯るそこでも、リシャールのブロンズカラーの髪がやけに綺麗に感じられる。

初日こそ一人で出かけた夏樹であったが、二日目のレッスンの後にそれを聞きつけたリシャールがお勧めの舞台を紹介してくれたのがきっかけであった。

それ以来、午後のレッスンの後一旦ホテルや自宅に帰り身支度を整えて合流、揃って舞台を見に行くというのが二人の日課となっている。

カジュアルなジャケット姿の夏樹に、同じくラフにジャケットを着こなすリシャールが並ぶ。

今日のお目当ては然程畏まった公演ではないようで、ジャケットさえ着ていれば何でも良いと聞いていた。

けれど似たような服装であるというのにどうにもリシャールが洒落て感じられるのはやはりお国柄とセンスの違いなのだろうか。

ただでさえ身長の差にコンプレックスを刺激されているのだが、不毛な事は深く考えない事にした。

『作品集って言ってたっけ?』

『うん、そう。クラシックがメインだけど創作も評判が良いんだ』

『創作か・・・』

『夏樹は創作踊るの?』

『ん・・・機会があれば踊らない事もないけど、日本ではそれほどメジャーでもないんだ』

『へぇ。驚きだね』

リシャールとの会話の殆どはバレエに関する事だ。

夏樹にしてもフランス語が堪能という訳ではないので、日常会話とバレエやそれに関連する用語だけで行える会話はとても助かっている。

この程度しか話せないのだ。

ハッテンバに行ったとして男を口説けるのかと言えば、答えよりも先にやはりため息が溢れてしまうだろう。

ボヌールバレエ団の近くで待ち合わせをしていた二人は、公共交通機関を利用し目的の劇場を目指した。

リシャールは常に笑みを浮かべ話しかけてくれるので、一緒に過ごすのも気楽だ。

はじめこそボヌールバレエ団のトップダンサーだと気後れを感じていたが、踊りの上手さ以外に彼がそれを感じさせる場面は少なかった。

そのうえ、フランス人の中でも整った容姿の部類に入るリシャールは夏樹の好みでもある。

洒落たパリの地で、好みの男性とバレエ公演を見に行きバレエの話しをする。

なんとも楽しく幸福な時間だ。

だというのに、どうにもただ幸せに浸り続ける事は出来ないでいた。

『ナツキ、此処だ。足下気をつけて』

『あ、ありがろう』

リシャールの手がスマートの夏樹の腰を支える。

一瞬触れた手は、すぐに離れてはその事実すらも曖昧にした。

決して恩着せがましくもなければ、わざとらしくもない。

さりげない仕草は胸が喜びに鳴る。

もしもこういった男性に愛され、そいして愛する事が出来れば、それこそが幸せなのだろう。

少なくとも、ヤクザなどと関わるよりは何倍も健全だ。

『時間に余裕があるね。何か飲み物でも?』

『そうだね、少し・・・』

目の前だけを見ていたいのに、そうと出来ないのは何故か。

もはや考えたくもない。

会場であるホールへ入るなり慣れた様子で奥へと進むリシャールの背を、夏樹はぼんやりと眺めながら後に続いたのだった。



  

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