■アンシェヌマン・・・3章・4



ボヌールバレエ団近くのホテルの一室で、夏樹はベッドの上で足を広げていた。

横へ180度に開脚をすれば、そのままの体勢で前へ身体を倒す。

多少の息苦しさを感じながらも身体に呼吸を合わせれば、その苦しさは心地よさへと変わった。

このホテルはバレエ団が押さえてくれたものだ。

老舗のホテルらしいが改装をしているのか内装は綺麗で、良い意味の古さだけが残されている。

部屋はワンルームで、ベッドと机とテレビがあるばかり。

風呂はなくシャワーブースだけであるが、海外とはそのようなものだろうと思えば別段不満もなかった。

フランスへ来て以降、夏樹はある意味において毎日同じ生活を繰り返していた。

朝は近くのベーカリーでパンを買い、午前中のレッスンを受ける。

仲の良くなった団員らとランチを取り、グループレッスンに参加する。

夕方にそれを終えると一旦ホテルへ戻りシャワーを浴び、着替えをしてリシャールとバレエ公演を観に行く。

それを終えれば二人で夕食を取りながら観たばかりの舞台の感想を述べあったり、バレエに関する様々な話を語り合う。

そうして深夜前にホテルへ戻れば、簡単なストレッチだけをして就寝をする。

ちょうど今がその時間だ。

今日も、昨日もその前も、同じ流れであった。

だがそれを単調だと不満に思うには至っていない。

毎日流れは同じでも観る物や話す事、それから感じる事も毎日違っていて、何をしても新鮮だ。

もっとも、そういった感覚が持てずたった10日あまりで飽きてしまうようであれば、二十年近くの年月バレエを続けるなど出来なかっただろう。

「今日のも・・・良かったな」

今晩観たのはドンキ・ホーテで、現在グループレッスンでおこなっている演目と同じだ。

レッスンをしているのは三幕の男性のソロパートだけであるが、そこ一つとっても今晩の舞台はとても勉強になった。

力強く、そして繊細で。

自分の目指している形にとても近かった。

その感動は強く、公演後にリシャールと食事をしながら豊富とは言えないフランス語で賢明にそれを語ってしまった程だ。

今となっては話したフランス語に自信はなく間違っていたかもしれない。

それでもリシャールは笑う事もなく真剣に話を聞いてくれた。

彼とは明日も一緒に舞台を観に行く約束をしている。

夏樹は元々その予定で来ているが、決してチケットの安くはない公演に彼を毎日つき合わせるのは心苦しく思うところもあった。

だがそれを言ってもリシャールは気にするなと言うばかりで、あまり繰り返しても余計に失礼だと触れない事にしていた。

明日は何を観に行くのか、彼は既に予定を立ててくれているらしいが詳しくは聞いていない。

「っ・・・と。ま、なんだって・・・いいけど」

倒していた身体を起こせば足を広げたまま真横を向き、踵を両手で持ち再び身体を倒す。

これまで毎夜のように違う公演を観ても、リシャールの選んだそれらはどれも素晴らしかった。

公演の規模は大小様々ある。

日本においても、演劇であれば大小の劇団が日夜どこかしこで公演を行っているがそれと似た感覚だ。

オーケストラを従えた有名バレエ団も素晴らしいが、街の片隅で若いダンサーが賢明に踊る様も見物だった。

刺激的で、胸が躍って、その瞬間瞬間が輝かしい。

後数日、そのような日々が続くのかと思えば、ただただその喜びだけで頭を一杯にした。

故意に他の意識を排除するだけならば出来る。

だが忘れ去るというのはなかなかに難しいようだ。

「もう、寝ないとな」

右足へ倒していた胸をあげれば同じように左へと倒す。

瞼を閉ざし息を吐き出せば無心になれる気がした。

明日も朝からレッスンがある。

ハイレベルのこちらのダンサーに負けないように気を引き締めなければならない。

体調管理の為にも眠らなくては、と考えていると、不意に客室の扉がノックされた。

「・・・え?」

時刻は深夜過ぎ。

別段騒いでいた訳でもないのでクレームがつけられたとは思えないが、誰が来る予定ももちろんない。

ベッドの上で楽な体制を取る。

もう一度ノックがワンセットならされると、夏樹はそろそろとそこから降りた。

ラフな部屋着の裾を引っ張り最低限の身なりを整え乱れた髪も手櫛でならし、ドアチェーンを掛け鍵を外す。

『・・・はい?』

『遅くに、ごめん』

『リシャール!?どうしたんだ?』

細く開けたドアの隙間に、先ほど別れたばかりの姿を目にすれば夏樹は咄嗟にドアチェーンを外した。

硬質な扉を片手で支え、数センチ視線の高い彼を見上げる。

すっかりくつろいだ格好になっていた夏樹とは違い、リシャールは服装もなにもかも先ほどと変わらない。

別れてから今までの間彼はどこで何をしていたのか、そして何故此処にいるのか、問いたい気持ちはあれどすぐには思うフランス語が出てはこなかった。

『リシャール・・・その』

『ナツキ、もう寝てた?』

『ううん、まだ。あの、中・・・』

『ごめん、直ぐに帰るよ。ただ、どうしても言いたくて、落ち着かなくて。帰り掛けたんだけど引き返してきたんだ』

「・・・え?」

言われてみると、リシャールは頬を赤らめ呼吸も乱れている気がする。

時間が時間とあり、走って来たのかもしれない。

そうまでして伝えたかった事。

明日も午前中から会うというのにそれよりも早くと考える事に心当たりはない。

いぶかしむばかりでいると、リシャールは扉を支えていない方の夏樹の手を取り握りしめた。

「あ・・・」

『ナツキ。ナツキが帰国する前日の夜を、僕にくれないか?』

『なに?どういう・・・』

『最後の日を、僕と過ごすと約束してほしいんだ』

『・・・リシャール』

毎日、初めの日を除いた全てを彼と過ごしている。

明日も彼と過ごす予定をしているし、きっとその次もだろうと思っていた。

握りしめられた手が熱い。

それは彼の内心を表しているかのようだった。

『ナツキ、だめか?もしかして他に予定が・・・』

帰宅途中で引き返してまで伝えたかったその約束は、昨日や今日と同じ意味なのだろうか。

良い年をした大人の男が二人。

彼の性癖は知れない。

ならばそこにある意味は大きく二つに分かれるのだろうと理解しながら、夏樹は頷いた。

『ううん、違うよ。大丈夫、構わないよ』

『本当?ありがとう、とても嬉しいよ』

それまでただ堅い印象であったリシャールが、さも嬉しげにパッと笑った。

もしかするとその日は、パリに来るに辺り夏樹が一番に望んでいた夢物語が観られるかもしれない。

金髪碧眼のまるで王子様のようなリシャール。

それは極彩色の背中よりもずっと、夏樹が欲しかったものの筈だ。

握られた手に力が加えられる。

それを振り払えもしないまま、夏樹は聞き取れない言葉を漏らす彼を見つめるしか出来ないのであった。



  

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