■アンシェヌマン・・・3章・5



二週間の日程はあっという間であった。

充実した日々で、自分の中でも何かが変わった気がする。

『ナツキ、指先。音を聞け』

「っ・・・」

『次、リシャール』

ボヌールバレエ団最後のレッスン。

二週間肩を並べたダンサー達の姿を目に焼き付ける。

此処には、日本にない物が沢山あった。

『もう一度、一人ずつ。それで今日は終了だ』

講師の言葉を合図に一人ずつ踊れば、終わった者は講師から指摘をもらう。

そのままレッスン場を後にする者も居ればその場に残る者も居たが、ナツキよりも先に踊ったリシャールはタオルを手にレッスンバーに腕を預けている。

彼の眼差しがこちらに向いているのを感じながら、自主的に一番最後になるのを待っていた夏樹はスタンバイについた。

「・・・」

リシャールや他のダンサーに見られている。

その緊張感は良い効果を与えているのだろう。

スタジオピアニストの奏でる曲に合わせ一歩を踏み出す。

時折飛んでくる講師の声を聞きながら、賢明に身体を動かした。

一曲というのは見ていればあっという間で、踊れば長く感じるものだ。

息があがってゆく。

音を逃さないように、指先にまで意識を張り巡らせるように。

ミスをしないのは当然ながら、宙に飛び上がった瞬間そこで停止が出来た気がすれば、なんとも言えない満足感が得られた。

「・・・はぁっ」

一分程の曲を終え、レベランスをする。

呼吸を整える夏樹は、フランス語でまくし立てる講師の言葉を聞き取るだけで精一杯だった。

『ありがとうございました』

全てをきちんと理解出来たかは定かではない。

不安もあるが、ただ講師から熱い気持ちだけは伝わっている。

二週間世話になった講師に握手を求めると、快くそれに応えた彼は優しい眼差しを浮かべていた。

此処で得た経験は大きく、決して忘れる事はないだろう。

感極まるものを感じながらも最後の別れを告げ、踵を返す。

するとそこには、リシャールだけが残っていた。

「・・・リシャール」

『ナツキ、素晴らしかったよ。是非舞台で見たかったくらいだ』

他のダンサーとはレッスンの前に別れを告げあっていた。

それは、レッスンの後に約束があるからに他ならない。

その約束の相手こそが、リシャールだ。

『ありがとう。ごめん、最後まで残ってしまって。皆の踊りを見たかったんだ』

『構わないよ。それより、待ち合わせを伝えないとと思ってね』

『あぁ、そうだね。今日はどうしたらいい?』

バーに掛けていた夏樹のタオルをリシャールから受け取れば、額から流れ落ちる汗を拭った。

舞台によって開始時間が違うのはもちろんドレスコードも変わってくる。

それが分かっている為に、夏樹もこちらに来るに辺り数種類のスーツやジャケットなどを持ってきていた。

『あぁ、今日はフォーマルでお願いするよ』

『フォーマル?どんな舞台なのか楽しみだよ』

リシャールの選ぶ舞台は大抵がカジュアルかそうでなくてもジャケット着用義務がある程度だった。

フォーマルが義務づけられている部隊を見たのは夏樹が一人で出かけた初日くらいなものだ。

それだけの舞台であると暗に伝えられれば、楽しみな気持ちと緊張が胸に浮かんだ。

『時間はいつも通り。食事は舞台を終えてからで構わないか?』

『うん、それで良いよ』

二人並んで更衣室へ向かう。

この近くにホテルをとっている夏樹とは違い、リシャールは自宅まで駅で3つ分の距離があるようだ。

愛車で来ているらしいが、舞台を観に行く時はいつも歩いている事から車は置いてきているのだろう。

待ち合わせはいつもスタジオの前。

何で来るにせよ、リシャールは夏樹よりも時間がない筈だ。

だというのに最後まで残る夏樹につき合ってくれていたのだと思えば、妙な深読みをしてしまいそうになる。

夜中にホテルにリシャールが来た日の事を思い出す。

最後の日をくれないかと言われた彼の言葉が忘れられず、その意味を考えていた。

いくつか憶測はたったが、けれどそれはどれも憶測でしかない。

今晩は舞台を見ずに、という居意味なのかとも思ったがどうやら違うようだ。

会話らしい会話も弾まないまま着替えを済ませれば二週間世話になったロッカーにも別れを告げ扉を閉める。

金属製のそれが閉まる無機質な音が、別れに寂しさを感じさせた。

『お待たせ。行こうか』

『うん。・・・寂しいものだね』

『ナツキも、寂しいんだ』

『うん。でも、まだ終わってないからね。今晩も楽しみだよ』

『そうこなくっちゃ。急ごうか』

『うん』

まだ、終わってはいない。

パリでの時間も、逃げ込んだ自分も。

ふとした時に脳裏を過る黒髪の男の面もちを振り切れなかった二週間を無駄にしないようにと、夏樹は更衣室の外から声をかけるリシャールに笑みを向け、小走りに走り出したのだった。



  

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