■アンシェヌマン・・・3章・6



高層のビルと明るいネオン。

車の行き交う通りを並んで歩く夏樹の足取りは軽い。

『リシャール、とても良かったよ』

『そうだね。良い評判は聞いていたんだけど、期待を裏切らない舞台だったね』

パリ最後の舞台公演も素晴らしかった。

なんでも、老舗のバレエ団で巨匠と呼ばれる演出家が二年ぶりに手がけた新作の創作だという。

クラシックバレエの踊りで描かれた「マーメイド」は、童話「人魚姫」をベースにしながら大人も楽しめる切なくも愛に溢れたストーリーであった。

プリマバレリーナの舞う姿は正に人魚の如くだったと脳裏に焼き付いている。

『最高の夜だよ。リシャール、ありがとう』

赤信号の歩道の前でリシャールが足を止めれば、夏樹もその隣で立ち止まる。

劇場を後にして来た道とは反対方向へ歩いている為此処がどこであるのか分からないが、元々の土地勘がない為考える事もせずリシャールについていた。

舞台の後に食事をする約束をしていたのでレストランか何かに行くのだろう。

信号が青へと変わる。

歩道を渡りながら、リシャールが十センチばかし高い身長から夏樹を覗き込んだ。

『ナツキまだ夜は終わっていないよ。約束だろ?』

『そうだね。何処に向かってるの?』

『あそこだよ。きっとナツキも気に入る』

『・・・あれは?』

『パリでも人気のホテルだよ。最後の夜にピッタリだと思わないかい?』

肩が触れ合うか否かという距離で、リシャールは前方を指さした。

そこには周囲のビルよりも飛び抜けた建物が建っており、近代的な外観は見るからに高級だと伝えられる。

今この格好ならばいざしらず、そうでないなら気軽に入る事も憚られるだろう。

リシャールが選ぶのは舞台も、そしてレストランも気取らない場所ばかりであったというのに、このような場所は初めてだ。

あの外観のホテルに気軽なレストランがあるとは思えない。

喜びよりも困惑ばかりが勝り、夏樹は直ぐには言葉が出てはこなかった。

『どうしたの、ナツキ?迷惑だった?』

『迷惑、ではないけれど、驚いてしまって。まさかホテルのレストランに行くなんて考えてなかったんだ』

『そうだね、僕も秘密にしてたもの。実はね、大切な話があって。今夜は僕にご馳走させてね』

「・・・え?」

『こっちだ。足元に気をつけて』

それ以上リシャールは何も言わなかった。

夏樹にしても気の利いた言葉を思いつけなくて、ただ彼の後に続いた。

ホテルのレストランで話したい「大切な話し」それが何であるのか想像も出来ない。

これまでリシャールとの会話の多くはバレエに関する事だ。

どの舞台が好き、何という演出家やダンサーに憧れている。

そう先の長くはないダンサー人生のこれからの夢や目標を、まるで少年のように語り合っていた。

それが楽しかった。

けれど、だからこそ特別重要な話など心当たりがない。

あるとするならば、夜中に彼が宿泊する客室に訪れた、あの日に感じたものくらいだ。

自然に振る舞おうとしてもぎこちなくなり、交わし合う言葉もない中、リシャールの後についていた夏樹はホテル上層階のレストランに訪れていた。

『此処だよ。僕は一度だけ来た事があるんだけど』

『・・・へぇ』

フロントから此処までも、どこかしこが煌びやかであった。

吹き抜けの天井や、金に輝く照明。

キラキラと反射する光は星のように美しい。

絨毯は深紅で、柔らか過ぎる為に足を取られるのではないかと思ってしまう程だ。

けれどリシャールの指さす先、扉のないレストランの入り口を前に夏樹はより胸が跳ねた。

ただダンサー仲間の別れを惜しむには、金色のフレームに囲われた入り口は豪奢過ぎはしないだろうか。

だが此処まで来て何を言えはしない。

夏樹には聞き取れないスピードでリシャールがボーイに何かを伝え、そして奥へと案内をされた。

『ナツキ、こっちだよ』

『あ、うん』

不格好に挙動不審になってしまいそうになりながらリシャールに続けば、ボーイは窓際の席の前で礼をする。

広い正方形のテーブルには二人用のカトラリーが並び、ボーイが引く椅子にリシャールが座るのを待ち夏樹もまたそこに腰を下ろした。

それを待っていたのだろう。

すぐのタイミングで別のボーイが訪れたかと思うと、二つのワイングラスにそれぞれ深い色合いの液体を注いだ。

「え?」

『料理もドリンクも予約をしていたんだ。ナツキ』

「・・・ぁ」

リシャールがワイングラスを持ち上げる。

その眼差しは、あまりに真っ直ぐで、そして柔らかく笑みを浮かべるものだから。

つい、流されてしまいそうになる。

彼に倣いワイングラスを持ち上げる。

いつの間にかボーイはいなくなり、こちらに気を向ける者の居ない空間は二人きりのようだ。

『お疲れ様、ナツキ』

『お、おつかれさま・・・』

小さくグラスがぶつかり合う音を聞く。

その音をどこか懐かしく感じていると、グラスを一口煽ったリシャールは夏樹へと手を伸ばしたのだった。


  

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