■アンシェヌマン・・・3章・7



あっという間もなく、リシャールの指先が夏樹の指へ触れた。

夏樹よりも白い彼の指が重なり合う。

だがそれは、ただ触れただけで離れていった。

『綺麗な、手だね。日本人は皆そうなの?』

『・・・さぁ、どうだろう。違う、かな』

『そう。僕は夏樹の、その手に惹かれたんだ』

「・・・」

意味深に呟くリシャールに、夏樹は言葉を返せはしなかった。

日本人であっても皆が夏樹と同じではないとはっきりと思い出せる。

リシャールが夏樹の指に引かれたというなら、夏樹も惹かれた指がある。

己よりもずっと太くがっしりとしていて、厚いそれは痛みを知る手だ。

けれどそれをリシャールに伝える必要性を感じず、夏樹は曖昧に笑みを返した。

そうしているうちに前菜から始まる料理が運ばれると、大きな皿に飾られた少量のそれは食べるのが惜しいほど美麗に盛りつけられていた。

だが一口食べれば、食べない方が惜し程旨い。

リシャールと来慣れないホテルでのディナーに緊張をしたがそれも初めだけで、会話はすぐにいつもと同じ舞台やバレエの感想で花が咲いた。

それがあまりに楽しく、旨い筈の食事もうっかり忘れてしまう程だ。

二週間近く毎日繰り返された幸福な時間。

叶うならずっと得たいとすら思える時間だが、それも今日で最後。

料理はメインディッシュが運ばれても会話はつきない。

デザートをフォークに刺す頃話は盛り上がりを見せ、コーヒーを手にようやくリシャールが一息をつけた。

『ナツキとの会話は、時間を忘れてしまうよ』

『僕もだよ。とても楽しいよ』

湯気が立つコーヒーカップを持ち上げる。

その香りが鼻孔をくすぐり、ようやく食事を終えたのだと実感した。

いつもと違う舞台を見て、いつもと違うレストランに訪れたけれど、その本質は何も変わっていないと今なら分かる。

彼がこれらを選んだ理由を散々に考えていたけれど、結局は深い意味などなかったのやもしれない。

ふとそう考えミルクだけを落としたコーヒーに口づけると、その夏樹をじっと眺めていたリシャールがテーブルの上で両手を組んだ。

『今晩で、それが終わるのかと思うととても惜しいよ』

『そうだね。僕もだよ』

『それは本当?ナツキ』

『うん。あまりこういった話をする人はいないから』

『そうなんだ。僕もだよ』

コトンと陶器が触れあう音がし、リシャールのカップがソサーに戻されたと知る。

無意識の反応でそちらへ視線が剥けば、その間を突くかのようにリシャールはカップを持っていないナツキの手を取った。

「・・・ぁ」

指同士が触れあっただけの先ほどとは違う。

手のひらを握り合わされ、しっかりと繋がれる。

簡単には振り払えそうにもなくて、夏樹は呆然とリシャールを見つめた。

『リシャール?』

半分ほどに減ったコーヒーが、カップの中で揺れる。

あまりに動揺をしてしまい、気を抜けばコーヒーが零れてしまいそうだ。

カップをソサーへと戻すとその手も空になったけれど、それをどうすれば良いのかは分からなかった。

『ナツキ、僕は、惜しいんだ』

『え?』

『今、この瞬間を失いたくない。ナツキを、失いたくはないんだ』

『何を・・・』

『ナツキ、今晩僕とこのホテルで過ごして欲しい』

「・・・ぁ」

リシャールの手に手を強く握り込まれる。

そしてその眼差しは至極真剣で、曖昧に誤魔化す事は許されないと言われている気がした。

『リシャール・・・それって』

『意味は、分かるよね?友人としてじゃ、ないよ』

友人としてではない。

ならば何だというのか。

頭の隅で常に考えていた予測は事実となったけれど、あまり現実的に考える事は出来なかった。

『ナツキは、僕が嫌い?』

『まさか』

嫌いではないから、今ここにいるし、握られた手も振り払わない。

けれど、だからと言って好きなのかと問われれば即答は出来なかった。

夏樹よりも長身で容姿も十分に整っており、日本人が自然には手に入らない色の髪を持ち、バレエも上手く会話も楽しい。

二週間の多くを一緒に凄し、リシャールという人となりも知っているつもりだ。

けれど、その全ては今日で終わるものの筈だった。

明日、夏樹は日本へ帰る。

そしてフランスと日本は決して近くはない。

「・・・ぁ」

『ナツキ』

『僕は・・・僕は』

いつだったか、以前に口にした事のある言葉。

確か一日に二度口にして、その一つは大きな分岐点となった気がする。

それがふと脳裏に過ぎった瞬間、夏樹は自然と唇が開いていた。

『僕は、ワンナイトラブはしない主義なんだ』

『ナツキ』

一度目は笑われて、二度目は受け流された。

ならば三度目はなんだというのか、少しの不安を持ちながらも目の前の青い瞳を眺める。

するとリシャールは、ふと柔らかい笑みを浮かべて見せた。

『僕も、そんな軽い気持ちじゃない。大丈夫、僕が───日本に行くよ』

「・・・え?」

『これからも、ナツキの近くに居たいんだ』

静かに告げるリシャールの声が遠くに聞こえる。

彼の言葉は耳に入っても、上手く理解が追いついていかない。

ただ分かるのは握られた手の温かさ、そして彼の優しさと、想い。

その一つ一つがゆっくりと胸に広がるのを実感しながら、夏樹は言葉もなく彼を見つめ返したのだった。



  

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