■アンシェヌマン・・・3章・8



夏樹が返事らしい返事を返せずにいると、リシャールはようやくその手を離した。

飲みかけのコーヒーカップを手にする。

もはや冷め切っているだろうそれを一口飲んだ。

『実は、以前から日本のバレエ団からオファーがあったんだ』

『日本の?』

『うん。ノギクラバレエ団って知ってる?東京にあるバレエ団だと聞いている。そこにはまだ正式な返答はしていなくて、迷っていたんだ。でも、ナツキが居るなら。日本に渡ろうと思えたんだ』

『・・・え、ノギクラ・・・野木蔵バレエ団』

知ってるも何もない。

野木蔵バレエ団は日本有数の興行バレエ団だ。

そもそも日本には興行を主体と出来るバレエ団自体が少なく、そこのダンサーというのは狭き門である。

町の、バレエスクールが主体で年に一度づつ発表会とバレエ団公演があるだけの小泉バレエ団とは何もかもが違う。

同じバレエダンサーと呼ぶことすらおこがましいと感じてしまうのは、何も夏樹が卑屈になっているからではないだろう。

驚きが一つでは収まらない。

一体何から返答を返して良いのかも判断出来ずに居ると、彼は小首を傾げてみせた。

『男同士は、気持ちが悪いかい?』

『それは・・・ないよ。俺もゲイだから』

『本当!?良かった。そうじゃないかとは思っていたんだけれど、もし気持ち悪く感じたなら申し訳ないと思って。なら・・・』

『・・・でも、その・・・リシャールからそんな・・・。想像もしてなくて、驚いてしまったんだ』

想像をしていなかったというのは全くの本心ではない。

だが、具体的でなかったのだから間違いでもないだろう。

二週間の間、ただ親しい友人だと過ごしていた。

少しは恋心のようなものを感じはしたが、それはありえないと考えていたからこそときめきを覚えただけだ。

テーブルの向かい側でリシャールが困惑を笑みで誤魔化している。

彼を前に、曖昧な言葉で誤魔化す事は出来ない気がした。

『俺は・・・』

リシャールは優しくて、紳士的で、日本人にはあまり望めない物も持っていて、一緒にいる時間も楽しい。

ワンナイトだけではなく、日本に来てすらくれるとも言っている。

フランス人で、金髪碧眼で、長身で容姿も優れていて、そのうえ野木蔵バレエ団のダンサーの恋人など最高だ。

愛しているの言葉を信じるならば、同性間では諦めていた心の繋がりもそこにあるのだろう。

願っていた全てが手に入るのだ。

『ナツキ』

『リシャール、俺は』

だというのに、夏樹は即答で首を縦に振る事はできなかった。

リシャールからの愛の言葉を受けたとして、その先に思い浮かぶのは彼から与えられる物ばかりだ。

彼はきっと、少なくとも今は深く愛してくれるのだろうが、その時夏樹はどのような想いを返せるのか直ぐには思い当たらないでいる。

ずっと昔から求めていた筈だった。

ただ一人愛してくれる、童話の中から現れたような王子様。

だというのに、リシャールを目の前にしてもちらちらと脳裏を過ぎるのは、王子とは正反対と言える極道の面立ち。

二週間忘れられなかった彼の存在を、今はこれでもかと大きく感じていた。

『あの・・・』

黒川の眼差しが、夏樹を見つめる。

その瞳は何かを訴えているように思えた。

瞼を閉ざす。

それでも黒川の面立ちが脳裏から払えないでいた夏樹は、一つ息を吸い込んだ。

『───リシャール。ごめん、俺は・・・日本に好きな人が居るんだ』

『・・・え』

『だから俺は、リシャールの想いに応えられない』

再び瞼を開けた夏樹は、真っ直ぐにリシャールを眺めた。

もう言い淀む事はない。

一度口にしてしまえば、己の一言一言が胸に染み渡った。

『ナツキ・・・それは、恋人?』

『ううん。でも、帰国したら告白をしようと決めたんだ』

それは、たった今。

狡いかもしれないが、リシャールから告白されたからこそたどり着けた答えだ。

黒川が好き。

忘れようと思っても忘れられず、きっといつまで待ってもこのままでは忘れるなど出来そうにはない。

彼のアドレスは携帯電話から削除をしてしまっているが、家は知っている。

押し掛けたところで、トータル一ヶ月程音信不通となっているのだから彼には既に別の相手が居る可能性は大きい。

相手にされないか、いっそ罵倒されるかもしれない。

それでも、この想いを想いのまま胸に止めておく方が何倍も辛いだろう。

『リシャール、ごめん。ありがとう』

『その人もナツキの事が好きなの?』

『さぁどうかな。それはまだ俺にはわからない』

『なら、振られるかもしれないよ?』

『そうだね。たぶん、振られると思う。でも、それでも俺は彼に想いを告げないと気が済まないみたいなんだ』

『そう・・・』

一瞬表情を堅くしたリシャールは、けれどすぐに笑みへと変えた。

ぎこちのないそれは無理をしているようで、きっと彼はそれだけ真剣だったのだろう。

こんなにも真剣な告白を受けた事はなく、断ってしまったからこそ胸が締め付けられる思いがした。

自ら手放した約束された幸せを惜しくも思うが、そう考えてしまう事こそが彼にとても失礼なのだろう。

本当に楽しかったパリでの半月は、彼が居たからだ。

その事実は今となっても変わらない。

『リシャール、ありがとう』

下手な事は言えなくて、けれど逃げる事も出来なくて。

テーブルの下で手を組むと、夏樹は彼を見つめ笑みを返した。

彼からの告白、それに負けないだけのものを、ただ一人の思い人に伝えようと心に決めたのだった。




  

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