■アンシェヌマン・・・3章・9



出来れば最後に朝のレッスンだけでも受けて帰りたかったが、朝一番の便に乗らなくてはならなかったので叶わなかった。

何せフライト時間は十時間を優に越える。

それでも、帰国便は出発便よりも二時間ばかりフライト時間が短いのは有り難い事だ。

日本への到着予定時間は午後9時。

今日は一日レッスンが受けられない。

もっと若い頃はそこに恐怖のようなものすらも感じていた。

一日レッスンを受けないだけで人間の体は三日後退するというし、長時間同じ体勢で居る事で筋が堅くなってしまう。

若い頃はがむしゃらで、前だけを見ていて。

ただただバレエだけが好きだったが、今はただそれだけでは居られない。

エコノミークラスのシートに身を沈める夏樹が、ふと瞼を震わす。

小さくくり抜かれた窓の外には成田空港が見えていた。



******

預けていたトランクを受け取り、入国手続きを済ますだけでも時間が取られるものだ。

出立時とは違いこの先に心躍る物が待ち受けていないだけに、長時間のフライトの疲労が待ち時間にどっと押し寄せる。

早く帰宅して眠りたい。

シャワーだけ浴びて、トランクからレッスンバックさえ取り出してしまえば後は後日に片づければ問題はない。

明日も朝からレッスンがある。

久しぶりの小泉でのレッスンは楽しみだ。

二週間の日程を半ば無理矢理に開けたのでリハーサルの予定も以降立て込んでいる。

だが幸いな事に予定の多くはバレエスクールの発表会の相手役だ。

つまるところ子供と組む為、夜遅くまでリハーサルが行われる日は少ない。

夜に時間が作れるならば、出来るだけ早く黒川の元へ向かいたかった。

リシャールと別れホテルに戻った夏樹は直ぐに携帯電話を確認したが、黒川からの着信履歴は一件も残ってはいなかった。

彼のアドレスを故意に消去をしたのは夏樹だ。

出もしない着信の履歴だけが残っていて欲しかったなどと言うのは贅沢過ぎる。

そもそもさほど期待もしてはいなかった。

こちらから連絡を絶っておいて今更会いたいと考えているのだ、直接出向くくらいの方が丁度良いのだろう。

顔に疲れを見せながら、夏樹は長い廊下を進む。

周囲はサラリーマンらしき男らが目立つが、彼らも一様に疲れた雰囲気だ。

足並みを揃えゲートへと向かう。

そうして磨り硝子の自動扉を抜けると、その先は見るもの全てが日常的な日本である。

雑多とした広い空間。

出迎えの人も溢れ、何処彼処から話し声やBGMが聞こえる。

音も文字も日本語で安堵感があった。

パリは洒落ていて憧れるが、いつでも肩肘張っていたのかも知れない。

やはり日本が一番だ、などと考えればあまりに庶民的な己に苦笑すら浮かんだ。

出てきた人と出迎えの人が立ち止まる固まりをすり抜け、出迎えなど居ない夏樹はトランクを押しながら駅へと足を向けた。

もう少し遅ければタクシーでも良かったが、この時間ならばまだ十分に電車がある。

疲れているが電車に乗り帰る程度、まだ頑張れるだろう。

一度止めてしまえば次に出すのが面倒になりそうな足を繰り返し前へと出す。

もはや周囲に気を配る事も出来ない。

そうしてただ人にだけぶつからないように歩いていた夏樹は、不意に手にしたトランクが軽くなった。

「・・・え?」

一体何が起こったのか。

身体のバランスが崩れそうになる体勢を咄嗟に立て直せば、トランクを見やり、その先へと視線を這わせた。

別の手が、夏樹のトランクを掴んでいる。

その手が当然のようにトランクを押し、来た道を戻ろうとしている。

声一つかけられない。

けれどあまりに当然だとそうするその姿に、夏樹はハッとするなり後を追った。

「どうして!」

「駐車場はあっちだ」

「そうじゃなくて、どうして居るんですか?」

「此処で、話していいのか?」

ようやく、相手の足が止まった。

そしてこちらを見た男は───黒川は、ただ真っ直ぐに夏樹を見下ろした。

そこに居るのは、どこからどうみても黒川だ。

ずっと会って居なかった、今一番会いたかった男。

けれど、戻りのフライト時間どころかフランスへ行っている事すらも伝えていなかったのだ。

何故今此処に黒川が居るのか、何の為に居るのか。

平素と変わらなく感じられる彼の面もちからは何一つ伝わりはしなかった。

「・・・それは、あの」

「行くぞ。話はそれからだ」

断言的に言い切る彼に、反論は浮かばない。

言いたいことは数あれど夏樹もまた此処で話す気にはなれないでいる。

黒川に会いたかった。

しかし会って何を話したかったのか、今は思い出せそうにはなかった。




  

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