■グリッサード・・・・11



男性クラスの四度目のレッスンが訪れた。
夕方まで他の教室に行き、主に学生とリハーサルをしていた夏樹は、二着目のタイツと三着目のTシャツに袖を通した。

スタジオ毎にレッスン着を必ず変える訳ではないが、すっかり夏の暑さになったこの時期は例外だ。

一度脱いだ汗で湿ったTシャツを、再び着ようとは思わない。

私服をレッスンバッグに詰め、バレエシューズとスポーツタオル、水入りのペットボトルを持ち、ロッカーに鍵を掛けた。

小泉バレエのここ本部スタジオには四つの更衣室がある。

一番広い女子生徒更衣室、二番目に広い女性団員更衣室と男性団員更衣室。

それと、申し訳程度に設けられた二畳程度の男子生徒更衣室。

生徒更衣室には風呂屋のように扉のないボックスが縦にも横にも並び、それぞれ自己管理で荷物を置くが、スタジオに居る時間が長
い団員の更衣室には鍵付きのロッカーがある。

もっとも、設計の都合で女性団員更衣室と同じ広さで作られた男性団員更衣室は、半ば物置になっている。

空いているロッカーには舞台の小道具やメイク用品が保管されており、奥には常に女性用のチュチュや衣装が置かれている。

常に同じ物というわけではなく、毎月何かしらあるコンクールや研究発表会などで使用するそれだ。

浩子が率先し男性団員更衣室を物置にしているが、それに慣れきって女性男性問わず他の団員も同じ認識がある。

その為、小泉バレエ団員の男性団員用更衣室の通称は「物置」だ。

スタジオにはきちんとした衣装保管庫があり、そちらは「衣装部屋」と呼ばれている。

よくよく考えれば、「物置き」の方が酷い呼ばれようだ。

少し早いが、高等クラスのリハーサルを見るには良い機会だ。

今頃、本部生がメインの眠れる森の美女のリハーサルをしているだろう。

夏樹もそこに出演するが、出番以外でリハーサルで会わせるのは通し稽古と舞台リハーサル、それから本番の三回だけだ。

荷物を持ち、更衣室を出る。

だがその瞬間だ。

夏樹は腕を掴まれたかと思うと、出てきたばかりの更衣室へ押し戻された。

「待ってたんだ。息吹せんせ」

「……美織さん」

後ろ手で扉を締め、夏樹の前に歩み寄る。

そこには、レッスン場では見たことのない、テレビモニターのなかでは昨日も見たばかりの、流の輝かしい微笑みがあった。

「何、でしょうか?」

気丈な笑みを浮かべようとする。

けれど生で見た事がなかった流の笑みがどこか恐ろしく、ただ事ではないのだと教えているようだ。

その上ここは狭い更衣室。

鍵が掛けられた事を音で知る。

今ここに、当然のように夏樹と流の二人きりだ。

まだ私服姿の流の前では、レッスン着の夏樹はあまりに無防備だ。

無意識のうちに場が流の手元に視線がいく。

剥き出しのそこに何も持たない事を知って少しばかり安堵した。

「これからレッスンですねぇ、先生」

「そうですよ。美織さんも着替えて下さいね」

「先週も先々週もレッスン妨害してさ、まだ俺の事クラスに入れる気?」

「美織さんがレッスンを受けたいのなら、僕は出来る限り指導します」

「俺がさ、受けたくなくてやる気出てないの、先生も分かってるでしょ?」

ゆっくりと一歩ずつ、流は夏樹へと歩み寄る。

流が何を言いたいのか、察せられない。

夏樹から流の受講を拒否しろと言いたいのか。

けれどそれが出来ないと彼も分かっている筈だ。

ならばレッスンその物を止めろと言いたいのか。

そのような事、夏樹の権限で出来る筈がない。

流が、互いのつま先が触れ合う距離で夏樹の前に立つ。

夏樹は一歩下がろうとしたが、すぐそこは壁があった。

「ねぇ先生、相談なんだけど」

「何でしょうか?お話しでしたらもう少し離れて……」

「先生、俺にさ、ちゃんとレッスン受けて欲しいでしょ?妨害、されたくないよね?」

「そりゃぁ……」

「だったらさ」

流の声音は、テレビの中で黄色い歓声を浴びている甘い声。

大きな目を形よく細め、唇を弓形に釣り上げる。

「俺に個人レッスンしてくれない?夜の個人レッスン。意味分かるよね?承諾するんなら、今からのレッスンもちゃんと受けるよ」

「……は?」

「先生さ、男もいける人でしょ?舞台人って結構多いから、なんとなーく、雰囲気で分かるんだよね」

流の言っている事が、上手く理解出来ない。

言葉としては聞き取れているし、一つ一つの単語としても分かっているつもりだ。

ただ、文章として続くそれが、理解そして意味が、飲み込めない。

テレビで見ない日はない国民的アイドルが、テレビで見る綺麗な笑みで目の前に迫っている。

全国の女性を魅了する声で夜を誘い、夏樹の性癖を言い当てた。

このような状況、一ヶ月前までの夏樹には起こりうると想像も出来なかっただろう。

流の面持ちがまた少し夏樹に寄せられる。

そしてハッとすると、夏樹は咄嗟に流の胸を両手で押し返していた。



    

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