■グリッサード・・・・14



やけに疲れた身体で私服に着替え、もう何度目ともつかないため息をこぼしながら夏樹はレッスン場を後にした。

レッスン場に面した道路を左に曲がると、黒川の車が闇に溶けそうになりながら止まっている。

それに安堵し、夏樹は小走りに助手席の扉まで掛けていった。

「お待たせ、仁」

「今来たところだ。お疲れ」

「うん。今日は疲れたよ」

遠慮なく、黒川の前でため息をつく。

同じ溜息でも先程までのそれとは色が違う。

疲ればかりがあるため息ではない。

疲れと、そして安堵。

知らず内に張っていた気が抜けていくのが分かる。

黒川がただ隣にいる。

それだけで随分と癒されるものだ。

「どうした。やけに疲れてるじゃないか」

「ちょっとね」

「れいのアイドルか?」

「そんなとこ」

車を発車させない黒川の隣で、それを促す事もなく夏樹は煙草を取り出す。

愛吸のそれを一本咥えて火をつけると、長く吐き出した。

どこから話すべきか少し迷う。

悩みの種はレッスンが始まる前から。

夏樹にはやましい事はないのだから、それを隠す必要はない。

それでも口ごもってしまうのは何故だろう。

開き掛けた唇に煙草を咥える。

もう一度それを吹かし、夏樹はようやく口を開いた。

「美織さんなんだけどさ……レッスン中にピルエット、回るのがあってさ」

「あれだろ。片足で回る」

「そうそれ。それで、基礎も出来てないのに無理な回数回ろうとしたんだよね。そりゃあ身体で回ろうとしたって回れるわけないし
、基礎が出来てたら……それが理解出来てたら無理に回ろうなんて考えないだろうけど」

「それで?転びでもしたか?」

「その通り。見事に転んだ。それも俺のせいだって言うんだけどさ」

「言いがかりも良いところだな」

「うん。俺もそう思った……」

基礎も出来ていないのに無理に回ろうとするからだ。

一度転倒した程度で二度としないと言うなら止めはしない。

あの時から何度も浮かんでは消え、黒川と顔をあわすまでムシャクシャとしていた。

しかし、彼に言いたかったのはそれではない。

それだけならば、何も言い淀んだりなどしない。

長くなった灰を、車内備え付けの灰皿に落とす。

そうして一口吸った夏樹は、細く長く、煙を吐き出した。

「その前に……レッスン始まる前なんだけど」

「レッスンの前?」

「たまたま早く準備終わってさ、そしたら団員用の更衣室に美織が入って来たんだ」

言いながら、その時の事を思い出す。

ニヤついた流の面持ち。

到底呑めない、そのうえ夏樹にはメリットなどあるとは思えない、交換条件、否脅し。

「何かあったのか?……殴られでもしたか?」

暗い車内でも分かる程はっきりと、黒川の眼差しが鋭くなった。

それを感じて、夏樹は慌てて否定的に首を振った。

「違う違う。そんな事はされてないよ。ただ・・・」

「ただ?」

「誘われたんだ」

「誘われた?」

「っていうか、その・・・エッチしたら、レッスンを素直に受けるって。もちろんすぐに断ったよ。そんな事出来るわけないし、論
外っていうか」

「懸命な判断だな」

黒川の声音が、低く重い。

日常的に彼は穏やかで、背中の極彩色さえ見なければ職業すら忘れてしまう程であるが、今の彼は忘れていたそれを思い出させるに
は十分だ。

ありありと、面白くないのだと声音が語っている。

その声に、何も悪くない筈の夏樹の背がびくりと震え、慌てて言葉を繋げた。

「だからその、俺はすぐに断ったし、今後も受けるつもりなんてないんだけどね。いくら人気絶頂のアイドルだからって、俺にとっ
ては無価値っていうかさ。だからそれは良いんだけど」

「俺としては、その男が、そのような目で、夏樹を見てるってだけで面白くないんだがな」

「そ、そう?俺が相手しないんだから良いんじゃない?えっと、なんだっけ?そうそう。それで、そんなこんながあった後のレッス
ンであれだったからさ。後味悪いなぁ、って思って疲れてただけ」

「・・・そうか」

重い声音のまま、黒川が一度頷く。

すっかり存在を忘れていた煙草が、熱を冷まし夏樹の膝に落ちた。

言うべきではなかったのだろうか。

だが、隠すべき事柄だとも、今にしても思えない。

「・・・仁、お腹すいたな。食べに行かない?」

恐る恐る、けれど平素の声音を装い、運転席を見る。

ハンドルに腕を休める黒川は、ポーカーフェイスで顔色を読めない。

運転席と助手席の間に手を置く。

その手はすぐに、黒川にさらわれ、握り混まれた。

「行くか」

「うん。いつものファミレスで良いよ」

もう、これ以上流の話しはしない方が良さそうだ。

そもそも、元から相談をしたかった訳では無く、疲れの原因を伝えただけだ。

そのうえ、疲れというなら、もう問題はない。

何よりの安息剤が隣りに居る。

暗い夜道、エンジンが掛かり車は滑るように走り出した。



   


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