■グリッサード・・・・17



いくら気を奮い立たそうと思っても出てしまうため息を吐き、夏樹はレッスン場に向かおうとした。

更衣室フロアまでクラシック音楽が届く。

聞こえてくるのは花のワルツだ。

そこに流の姿はない。

女子生徒に見つからないよう、彼女らが更衣室に入ってしまうまで男性更衣室に居るのだろう。

顔を合わせなかったのは幸いだ。

そこを突っ切り、階段を降りてしまおうとした。

けれどその時、背後でガチャリと扉が開く音が聞こえ、夏樹は咄嗟に振り返った。

「・・・萩尾さん」

そこに居たのは、流とはまるで違う体つきの萩尾であった。

初めは柔道着の方が似合いそうだと思っていた身体は、今はレギンスとTシャツのレッスン着姿の方がよく似合って見える。

ピッチリとしたレギンスに覆われた足は、バレエのそれではなかったものの、立派な筋肉が纏っていた。

「先生、少し良いですか?」

萩尾の姿を見て、どこかほっとする。

黒川と似た威圧感を持っているからかもしれない。

夏樹の前に、あくまでも低姿勢で歩む萩尾に、ニコリと笑みを返した。

「はい、なんですか?」

萩尾がわざわざ話しかけてくるのは、皆が帰ったレッスン場で言葉を交わして以来だ。

あの時と似たような話か、レッスンでの疑問か、どちらにせよバレエ関係の話だろうと高をくくる。

その割には険しい面持ちの彼に少し違和感を感じたものの、特別気にはとめなかった。

「先生、ここではちょっと」

「え?はい?」

楽観的に萩尾に相対する夏樹の一方、当の彼は慎重さを見せた。

フロアの隅を視線で促される。

それを拒否する理由はなく、夏樹は萩尾と共にソファーが置かれた端、更衣室から離れたそこに向かった。

「あの、何か?」

「いえ、大した事ではないんですが」

そう言いながらも萩尾の口は重い。

いよいよ訝しむ夏樹をじっと見下ろし、萩尾は一つ息をついた。

「美織の事ですが」

「え?」

「先生?」

「い、いえ」

不意に萩尾から出た流の名に、つい素っ頓狂な声が出た。

思わず動揺してしまう。

それに対し次に訝しむ顔を見せたのは萩尾だ。

「どうかしましたか?」

「いえ。それより、美織さんがどうかしたんですか?」

ひきつった笑みを浮かべ言葉を濁す。

萩尾はそれ以上追求してはこなかった。

「それが。その・・・余計な事かと思ったんですが。それに、もう先生が黒川に頼んでるかとも思ったんですが」

「え?仁・・・えっと、黒川、ですか?」

思わず首をかしげる。

流の名前を聞いた以上に驚きがあった。

確かに萩尾は夏樹と黒川の関係を知っている。

しかし流とセットで名を聞くなど、想定外も良いところだ。

「何も、美織さんの事で黒川に頼んでいませんが・・・?」

愚痴ならば毎週のように聞いてもらっていた。

中には講師失格のような言葉も告げている。

だがそれだけだ。

先の言葉を読めない夏樹をよそに、萩尾は少しばかり安堵した表情をみせた。

「そうですか。ではまだご存じないかも知れませんね」

「なんの事ですか?」

「美織がまともにレッスンを受けない理由です」

「え?」

「余計な事は承知で、調べたんです。すみません。職業柄、こういった事は得意分野でして」

萩尾は、夏樹の予測をどんどんと裏切っていく。

呆然と彼を眺める。

知らず内に開いてしまいそうな口を、意識的に閉ざした。

流が何故きちんとレッスンを受けないのか、気にならなかったわけではない。

ただ初めからそう聞かされていたので、どこか「そのような人間」だと思い込んでいた。

流がレッスンをきちんと受けないところには理由があったのか。

そのような一見当たり前の事すら気づけなかった自分が情けない。

「それで、それは・・・?」

萩尾が一度辺りを見渡す。

誰も居ない事を確認し、声を落とした。

「美織が出るという舞台の関係で、当初美織に密着取材のオファーがあったそうです。ですが、密着取材が始まる直前、その話が流れ、同じ舞台に出演する別の俳優に変わったそうなんです」

「密着、取材」

「その俳優というのが新人で、この舞台でも端役らしいんですが、最近人気急上昇で。演技もダンスも上手いと評判らしいんですよ」

「・・・それで、えっと密着取材がないから、レッスンを真面目に受けなくて良いというか、舞台そのものもおざなりになった、っていう事ですか?」

「恐らく。本当のところは当人に聞かなければ分かりませんが」

ようは、流はすねていたのだろう。

それまでただ漠然ときちんとレッスンを受けない、としか知らなかった流の、本当のところ。

予測も交えたそれを聞かされると、不思議だった部分がすとんと落ち着く気がした。

   

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