■グリッサード・・・・19



レッスンは、思いの外集中出来た。

やはりバレエをしていると、余計な事を考えずに済むようだ。

宣言通り流は、初めて真面目にレッスンを受けてくれたというのもある。

いつになくスムーズに進んだレッスン。

それは、あっという間に過ぎていった。

「では、最後にピルエットを一回ずつ回って終わりにしましょう」

音楽を掛ける。

リズムをとるかけ声で、一斉に回った。

中間と柚木は安定している。

萩尾も先週より綺麗にダブるを回れている。

八本と皆川はシングルがやっとだが、ブレは少なくなっていた。

流は、回れていない。

だが転倒する事なく、ふらつきながらも、足をつき止まっていた。

無茶をしないというだけでも十分な進歩だ。

「美織さん、腕で回ろうとせず、ルルベに立ち上がる勢いを大切にしてください。そうしたらふらつきが少なくなりますよ」

「・・・はい」

何か言いたげでありながら、何も言わない。

最後まで約束を守ってくれたのだろう。

最も、その約束など、彼が一方的に言っただけのものに過ぎないのだが。

「お疲れ様でした」

「ありがとうございました」

「ありがとうございました」

夏樹がレベランスをする。

生徒らがバラバラと、けれどしっかりとした声音でレベランスを返した。

夏樹がオーディオデッキに向かい、片付けをする。

そうしている間に生徒らは階段を上り更衣室へ戻っていく。

いつもの光景。

それを見送り、夏樹はオーディオデッキに向かった。

レッスン中は、良くも悪くも何も考えられなかった。

けれど考えたところで、流に対する策の名案など浮かぶとは思えない。

このままではいいけないと思いながらも動けず、いっそ逃げ出してしまいたい。

とはいえ、現実的に逃げられるとも思えない。

ならば。

ひとときでも、現実から背を向けたかった。

レッスン用のCDをケースに戻す。

そして発表会で踊る演目のCDを棚から取りだした。

踊る事でしか今を忘れられない、そして今を忘れたい、など情けないにも程がある。

ため息が一つ出る。

そして曲を流そうとした。

しかしその時、不意に視線を感じ、夏樹は振り返った。

「美織さん」

階段を上がって行ったとばかり思っていた流がそこに居る。

女性を魅了する綺麗な笑み。

それが今の夏樹には、恐ろしい物にしか見えない。

流が夏樹へと歩みを進める。

目を背けたかった現実を突きつけるかのように、近づく彼から逃げられない。

「ねぇせんせ。今日の俺、どうだった?」

「どう・・・というのは・・・」

「真面目に、邪魔せず、レッスン受けたでしょ?約束通り」

「それは・・・はい」

約束。

そんな物は流が一方的に行ってきただけの事。

しかしそれが、彼の本気を突きつけているのだろう。

かわす言葉も浮かばない。

夏樹の内心を見透かしたかのように、流はにやりと笑みを変えた。

「で、先生の答えは?」

「答えは、変わりません」

それだけは、どのような状態であっても即答出来る。

流の要求を呑む事は出来ない。

黒川を裏切る事も、流と夜を共にする事も、夏樹にとってはあり得ない事だ。

それで流がどのような手段に出るとしても、答えが変わらない限り弱腰では居られない。

知らず内に眼差しが鋭くなる。

顎を引き流を見たその視線は、睨むようなそれになっていた。

「じゃぁ、俺があの写真ばらまいても良いんだ」

「それは・・・仕方ないですね」

何も、覚悟が決まった訳ではない。

黒川との関係をばらされては困る。

どちらも嫌だ。

しかし、流の要求を呑めない以上、その言葉はすんなりと出てきた。

「そ、そう。じゃぁ、ばらすからな」

「困ります」

「はぁ?今、仕方ないって言っただろ」

「言いました。けど、ばらされて困る事実も変わりません」

「なに言ってんの?どっちも嫌とか、子供じゃないんだからさ」

「そうですね。どちらも嫌なんです。大人でも、そういう事はあるんじゃないですか?」

「だったら、俺の要求呑めよ」

「だから、それは出来ないって言ってるだろ」

流の言うように、夏樹は子供のような我が儘を言っているのだろう。

だが流も、ただ子供の駄々をこねているだけだ。

今、それがはっきりと分かった。

夏樹自身に執着をしているのではない。

この件について、後が引けなくなり、どうしても要求を呑ませたいと思っているだけ。

そうとしか、夏樹には思えない。

だというなら尚のこと、受け入れてたまるものか。

にらみ合い、息を巻く。

そうしていると、ある意味において二人の世界に入っていたのかも知れない。

「お取り込み中失礼する。穏便な会話に聞こえなかったから、節介を焼きにきた」

知らずうちに声も高くなっていたのだろう。

近づく足音に、気づかなかった。

「は?・・・ぁ」

「・・・萩尾、さん」

まだレッスン着姿の萩尾が、夏樹と流の間に入るよう横に立つ。

こんなにも近くに居て気づかなかったのは夏樹が、流も、迂闊であったのか、萩尾がそうしていたのか。

どちらであるのかは分からなかった。


   

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