■グリッサード・・・・22



行きつけの喫茶店の、いつもの席とも言えるカウンターの端に座り、夏樹は黒川に事の経緯を説明した。

流のレッスン態度、撮られた写真、彼からの脅しと、彼が真面目にレッスンを受けない理由。

萩尾が調べてくれた事も、萩尾が夏樹と流のやりとりの仲裁に入った事も、全て。

夏樹に付き合うよう卵料理とトーストの朝食を食べながらそれを聞き終えた黒川は、煙草を一口ふかし、ようやく唇を開いた。

「タイミングといい、萩尾さんが動いた可能性は高いな」

「やっぱり。でも、萩尾さんってそんな事出来るの?」

彼がヤクザである事は知っている。

先週あの場では、彼の脅しこそが流を威力を持っている印象すら与えられた。

しかし現実にそれが起こってみると、信じ切れない胸の内もあった。

ただの偶然ではないのだろうか。

何も、萩尾が脅しを実行した事が信じられないのではない。

ただ、本当に彼にそれだけの力があるのかにわかに信じられないだけだ。

ヤクザというのが、萩尾が、どれだけの力を持っているのか知れない。

黒川にしても萩尾にしても、夏樹と相対する彼らは一個人。

ただの男でしかないからかもしれない。

怖じ気づくような威圧感を放っていても、いつも優しく紳士的で、高圧的な部分などない。

そのうえ萩尾は、腰が低く一生懸命な、夏樹の生徒だ。

眉をひそめる夏樹に、しかし黒川は当然の事のようにしれっとしていた。

「出来るだろ、萩尾さんなら」

「そうなの?そんな力が・・・」

「あの人にはそれだけの力も人脈もある。やろうと思えば、今の芸能界をひっくり返す事なんて容易いだろ。芸能界だけに限った事じゃない。政界だろうがなんだろうが、不可能だとは俺には思えない」

「そう、なんだ」

あの萩尾が。

夏樹の知る彼は、どこまでもバレエの生徒だ。

Tシャツにタイツをはき、レベランスをしている姿ならば想像がつく。

しかし芸能界どころか政界にまで威力を誇っているというのは、にわかに想像が出来ない。

初めの印象だけならば容易かっただろう。

だが今は、「バレエの生徒」としての彼が夏樹の中で大きくなりすぎている。

「そっか、萩尾さんなんだ」

「大方な。事実確認をしたわけではないから確証など何もない。ただ、タイミングと萩尾さんの力を考えると、容易だというだけだ」

「もし、それが本当なら、萩尾さんに悪いことしちゃったな」

「悪いこと?」

「俺のせいでさ、余計な手間を掛けさせちゃったっていうか」

夏樹と流が揉めていると知らなければ動かなくて良かった事だ。

萩尾には本来関係のない事だった。

それは明らかに手間と呼べる。

コーヒーを飲み、ため息が出る。

しかし夏樹の一方、黒川はあっさりとしていた。

「夏樹が頼んだわけじゃなく、萩尾さんが自身で動いた事だろ?気に病む事はない」

「でも・・・」

「勝手にした事で恩を着せるような人じゃない。あの人は、俺の知る限りでも立派な極道だ。下手なチンピラじゃない」

「それは、そうかもしれないけど、そういう事じゃなくて」

何も、萩尾に法外な礼を要求されるなど考えて居たわけではない。

夏樹が知っているだけでも、彼はそのような事を望む男ではないと言えるし、そうであって欲しいとも思う。

ただ、手間を掛けさせた事実が変わらないというだけの事だ。

「本当はさ、萩尾さんが関係ない事で動いてくれたんだ。助けてもらった。凄くありがたいんだけど、その分申し訳ないっていうか・・・」

まだ眉を寄せ続ける夏樹に、黒川はふと笑った。

「夏樹がそれを分かってくれてるならそれで良い。なら夏樹はただ、普通にしてたら良いんじゃないか?」

「普通に、って?」

「もし、ただのリーマンだろうがなんだろうが、助けてもらったならどうする?」

「それは・・・お礼を言って、それで・・・」

「そうだ、それで良いんだよ。萩尾さんに礼、言っとけ」

「そっか・・・そうだね」

夏樹にとって、萩尾はヤクザではない。

一個人の男で、生徒。

ただそれだけだ。

きっと萩尾は、流がレッスンを真面目に受けない理由を調べてくれた時と同様の気持ちで動いてくれただけなのだろう。

今回が、夏樹には大仰な事に感じられただけで、もしかすると萩尾にとってはそれほどではなかったのかも知れない。

それは夏樹には分からない。

ただ分かるのは、確実に萩尾に感謝をしているという自分の気持ちだけ。

ならば感謝を述べる、極当然の事だ。

「今日レッスンだから、もしこれが本当に萩尾さんが動いてくれていたんなら、お礼を言うよ。本当に、助かったんだ。俺じゃぁどうする事も出来なかった」

「あぁ、それで十分だ。まぁ、俺としては焼けるがな」

「え?」

「仕事が忙しかったとはいえ、俺が夏樹を助けられなかった。悔しいもんだな」

煙草を挟んだ手を唇に添え、黒川が笑う。

目を細める彼に、夏樹も頬が緩んだ。

「ありがとう」

その気持ちだけで十分。

他に言葉もない。

結局流との事で夏樹は何も出来なかった。

けれど今からでも出来る事はある。

感謝を伝える事。

それはとても些細で、けれど重要な事であるのだとも、しっかりと知っている。

ふと胸が軽くなる。

それまで分からなかったコーヒーの味が、とても旨いのだと、思い出した。

   


+目次+