■グリッサード・・・・3



生活の一部となっているバレエをしていても、慣れない指導をすると疲れるものだ。

体力が消耗したというよりも精神的な物だろう。

それはただ、数をこなし慣れるしかない。

更衣室で私服へ着替え、生徒が帰ったレッスン場を後にする。

しっかり施錠をし、道路を小走りに路地を一つ曲がる。

そこには見知った車、黒川の愛車が止まっていた。

「お待たせ」

「お疲れ、夏樹」

「ごめん、迎え頼んじゃって」

「俺が来たかっただけだ」

暗い車内。

運転席に座る黒川が淡々と告げ、静かに車を発車させた。

自身のレッスンから始まりリハーサルを回り、講師をした気疲れもあり、助手席に腰を降ろした途端どっとした疲れが押し寄せた。

二人きりの密室。

そこに居るのが黒川である事が大きな要因だろう。

レッスンバッグの中から水入りのペットボトルを取り出し喉を潤わす。

そうして一息をつくと、ポケットから煙草を取り出した。

「はぁ、落ち着く。やっぱり仁に迎えに来てもらって良かった」

「そんなに疲れたのか?珍しいな」

「うん。なんて言うか、気疲れかな。身体の疲れには慣れてるっていうか、免疫ついてそんなに疲れも気にならないんだけどさ」

「気疲れか。そういえば今日は講師をすると言っていたな。そんなに難しい相手だったのか?」

「ううん。そんな事ないと思うよ。ちゃんと指導も聞いてもらえたし。ただ俺の度量のせい。滅多に講師しないからさ。今までは臨時が多かったし」

「そんな物なのか。公的でなくとも、資格とかないのか?」

「ないよ。団長先生に言われたらするだけ」

夏樹にとって当たり前の事を聞かれると逆に驚いてしまう。

それと同時に、自分がいかに世間離れをして来たかを突きつけられる。

窓を少し開け、口から煙を吐き出す。

付き合い始めた頃に比べれば随分と、バレエの話し、夏樹の生活の話をするようになった。

けれど黒川の生活、仕事については依然、全くと言って良いほど何も知らない。

「なら、さっき出てきたのが夏樹の生徒か?」

「そうだと思うよ。他に人残ってなかったし」

「そうか」

「どうしたの?あぁ、今日は男性クラスだから男の人ばっかりだったんだけど」

「いや、少し……珍しい人を見たからな」

「珍しい人?」

珍しいも何も、黒川は小泉バレエスクールの生徒を殆ど知らない筈だ。

黒川が小泉バレエ団のスタジオに迎えに来る事は滅多にない。

さも訝しむ声を上げる夏樹に、黒川は前を見据えたまま、片手でハンドルを握り煙草を咥えた。

「生徒の中に、萩尾という男は居なかったか?」

「え?居たけど……仁、知ってる人?」

初心者の中でも有望株。

筋肉がついた身体はバレエ向きか否かは別として身体が出来ているようだった。

無表情の、やや強面の顔を思い出す。

「ちょっとな」

「ちょっと?」

「いや、何でもない。プライベートを詮索するのは野暮だったな」

黒川が言葉を濁したのは分かった。

けれど彼がそう言うのだから、これ以上突っ込んでは聞けない。

「それより飯は食ったのか?」

「間食程度。仁は?」

「俺もだ。どこか食いに行くか。何が食いたい?」

「そうだな……がっつり系?」

「なら肉だな」

食事を採る時間がなかったわけではない。

だが食事を採った直後では身体が重くて動かない。

その為、昼食はともかく夕食はレッスン後となる事が多かった。

それともう一つ。

黒川が迎えに来てくれるのだ。

食事の間だけでもデートを楽しみたい。

否、夏樹にとってはこの送迎の時間も立派なデートの一つだ。

あれほど感じていた筈の気疲れが、知らず内に忘れている。

夏樹の中で黒川の存在は大きい。

彼を知らない頃には戻れないと真剣に思う程、黒川という存在は癒やしであり、その癒やし無くしては成り立たなくなっている。

「早く仁の部屋に戻りたくなった」

「誘っているのか?」

「そう。早く仁といちゃつきたい」

「飯も食わずに家に帰るぞ?」

「ごめん、それは無理。お腹すいた」

「だったら無駄に俺を煽らない事だな」

黒川の声音は単調で、そこから真意を読み取り辛い事は多い。

けれど今は。

冗談でもなにもなく、黒川の言葉が本心である気がした。

食事よりも求められている。

夏樹自身はそれが選べなかったというのに、彼の言葉がどうにも嬉しくなっていった。


  

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