■グリッサード・・・・5



前のクラスが終わる前にレッスン場に降り、オープンクラス用の書類を用意する。

コンポが置いている辺りでストレッチをしていると、講師の呼びかけがあり、レベランスと共に終わりの挨拶で締めくくられた。

高校生程度の年齢の少女らが階段を上がり更衣室へ駆け上がっていく。

今ここに流が現れたならばどんな騒ぎになるだろうかとヒヤヒヤしたが、幸い入れ違うように降りて来たのは先週顔を合わせた男性
ばかりだった。

「おはようございます」

「伊吹先生、おはようございます」

集まった五人を見渡し、時計を見る。

レッスン開始時間丁度。

普段なら例え全員が揃っていなくとも、すぐレッスンに入るところだ。

しかし新しい生徒が来ると知らされている。

もう少し待つべきか。

そう考えていると、すっかり少女らの姿が消えた階段から、足音が聞こえた。

彼女達が女子更衣室へ消えるのを待っていたのかも知れない。

小走りに階段を降りてくる姿を無意識に眺める。

夏樹につられるよう生徒らもそこへ顔を向けていると、黒いタイツにTシャツ姿、スラリとした体型の流がレッスン場へと入って来
た。

生徒らから小さな声が上がる。

けれど若い女性ではない。

中年を過ぎた彼らにとっては、その程度の反応なのだろう。

にこりと笑った流が生徒と並びながら夏樹を見た。

「どうも」

「おはようございます」

初対面の講師に「どうも」の一言なのか。

夏樹が世間離れしているのか、彼が世間離れしているのか、どちらの感覚も世間離れしているのか。

どれであるかは分からなかったが、夏樹は軽い眩暈を覚えた。

しかしそれを顔に出す事なく、六人となった生徒を見渡しレベランスをした。

「では、はじめます」

「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

初心者を含むとはいえ、決して初めてではない五人がレベランスを返す。

しかし流は、頭一つ下げる事なく突っ立ったままだ。

流にしても、これまでいくつかの教室に行っていたと聞いている。

レベランス程度知っていると思い込んでいたが、どうやら初めから全てを教えるべきだと悟る。

それは、レッスン前に講師へ挨拶をする、というのを含んでだ。

「美織さん、レッスンの初めと終わりにはレベランスと言ってお辞儀をしながら挨拶をします。後ろ足を引いて……」

「それぐらい知ってるって。でも別に良っかなぁって」

良い訳がないだろう。

ため息が込み上げる。

しかしそれを吐く訳にはいかないと、頬をややひきつらせながらも笑みを向けた。

「して下さい」

「分かったよ。今度からな」

言いたい事はある。

だがこれ以上流にばかり気を取られてはレッスン時間が減るだけだ。

既に辟易としながらも、どうにか夏樹は気を取り直した。

「ストレッチから始めます。広がって下さい」

バラバラと生徒達が無言で広がり床に腰を降ろす。

その中で、やはり流だけが不満げにしていた。

取り合う事なく、鏡を背にして生徒達と向き合うと夏樹は両足を合わせた。

「まず足の裏を合わせます。つま先を持って、後ろ腰を伸ばすように。尻の面ではなく、骨で座る意識で……」

悠々と、口にした体勢を難なく作る。

腹筋を使い苦しげな面もちで真似をしようとする生徒を見渡していると、流だけが、ただ足を合わせて座るだけで何もしようとしな
かった。

出来ないならばそれでも良い。

身体の動かし方など一度や二度で身につくものではない。

しかしやろうとしないのは、夏樹としてもどうすべきか判断がつかなかった。

「美織さん、身体に足を引き寄せて下さい。背を伸ばすだけではなく骨盤を意識して……」

「あ、俺良いわ」

「……は?」

「一日中動いてたしダンスもしてたし、身体解れてるから」

「いえ、バレエのストレッチは準備体操の意味もありますが、バレエの身体を作る為の……」

「えー。踊りだけ教えてくれんじゃないの?だりぃ」

だったら帰れ。

喉元まで込み上げる。

しかし、くれぐれもそれだけは言ってくれるなと浩子から言われている。

美織が何者でも構わない。

けれどバレエ協会からの圧力は、決して無視出来るものではない。

「……やって、ください」

それ以上、適切な言葉が浮かばなかった。

子供の頃からバレエが中心の生活をしてきた。

人生の大半の時間をバレエと共に過ごし、関わる多くの人が同じような人種だった。

アルバイトすらまともにした事がなく、自分が浮き世離れしている自覚はあるし、自分の人生こそが素晴らしいなどとも言わない。

だからだろうか。

真っ向からバレエに対する姿勢に反発する相手を前にした事などなかった。

学生の頃は男がバレエをしているというだけで笑われた。

だが今はそれとも違う。

「では、頭を前に。腰ではなく骨盤から前に行くように。息を吐き出しながら」

先が思いやられるどころではない。

出ていけと言ってしまいそうな自分との戦いでもあるし、他の生徒にも目を配らなければ。

上半身を倒し床に額をつける。

長く口から息を吐き出した夏樹は、瞼を閉ざした暗闇の中で、バレエに無知ながら好意的な黒川の面もちを思い出していた。

    

+目次+