■グリッサード・・・・8



翌週も流はレッスンに訪れた。

萩尾と一悶着あったので、もう訪れないかもしれないと少しばかり考えていた。

けれどそれは、夏樹にとって良かったと言えるかは分からない。

「プリエから。ドゥミプリエ、ドゥミプリエ、グランプリエ。手は、ずっと横から下。一番は前後ろ。二番は右左。バー側へ行ったら手を離して外へ。四番は後ろ前。五番はフルポールドブラで、ルルベバランス」

言葉にしながらゆっくりと見本を見せる。

その様子を、流以外の五人が真似をしながら見ていた。

彼は覚える気がないのだろうか。

それとも、ダンスなどで鍛えた記憶力ですぐに覚えられるのだろうか。

どちらにせよ、そこを注意しようとは思わなかった。

ここに居るのは大人だ。

やるやらないの注意は子供まで。

行った後にアドバイスをするしか夏樹には出来ないし、する気にもならなかった。

一週間の間が空いた事で、冷静に見える事もある。

「では曲流しますね」

オーディオのスイッチを押す。

八カウントの音がゆっくりとした曲調で流れた。

「柚木さん、グランプリエで腰を落としきらないで。骨盤は上に。萩尾さん、良いですね。肘はもう少し下で」

生徒の間を通りながら気になる点を指摘し、身体に触れ直していく。

やはり始めに見た印象のまま、萩尾は確実に技術を身につけていた。

まだ身体のこわばりはあるが、バランス力も非常にある。

無表情を通り越し厳めしい面もちを笑みに変えたならばもっと良くなるだろう。

「美織さん、姿勢を正して」

先週と変わらず、やる気のなさばかりが伝わる流に腕を伸ばす。

けれど彼に触れる前に、一瞬躊躇する。

先週は身体に触れるとさも嫌そうな顔をした。

しかしそれを躊躇っていてはレッスンにならない。

流の胸と背に手を当て姿勢を正させる。

だがそれもつかの間、夏樹の手が離れた瞬間に、彼の姿勢は元に戻った。

「腕はこの位置で」

姿勢にはもう触れる事なく、下がりきった腕を持ち上げる。

それが元の位置に下がってしまう前に、夏樹は彼から背を背けた。

逃げたのだ。

分かっている。

だが、出来ないのではなくやる気のない美織を相手し続けて、やる気のある他の生徒に裂く時間が減るのはどうにも嫌だった。

「次、左いきましょう。グランプリエの時にしゃがみ込むのではなく、意識は常に上に。下と上から、何かに引っ張られているように」

オーディオの横で声を張る。

各々指摘の点を見直す中、バーの一番橋から笑い声が上がった。

「あー、駄目。マジ可笑しい」

皆が右手でバーを持つ中、美織だけがそこにもたれかかっている。

そして、忍事なく笑い続けていた。

「一番後でさ、見てたんだけど。やっぱ本気でみっともないんだけど。揃いも揃っておっさんがさ、タイツ履いて必死なってんの。横に鏡あんのに気づかないの?先生みたいにさ、若くてイケだったら良いけど、おっさんって。それに前のあんた、バレエなんかより柔道とかの方が向いてると思うけど?」

拳が自然と握られる。

嫌なら出て行け。

もう何度も喉に上がりそうになっても、夏樹が口に出来ない言葉。

それを必死に呑み込む。

自分の事なら、レッスンの事ならば、まだ我慢も出来た。

けれど真剣に習おうとしている生徒に向かい、言って良い言葉では絶対にない。

「みっともないのは、真面目にレッスンを受けない貴方の方じゃないですか?」

ようやく絞り出せた声は、自分でも驚く程冷たかった。

そのような声が出せるとも知らなかった。

「は?何言ってんの?」

「僕には貴方が一番みっともなく見えると言っているだけです」

「あぁそうか。先生だったらそう言うしかないっか」

「僕が講師だから言っているんじゃありません。ただバレエをする人間として、貴方が皆さんのどこをみっともないと言っているのか分らない」

「分らないって、そんな良い子な返事良いって。先生も思ってんじゃねぇの?おっさんがいくら頑張っても無理ぃって」

「思ってません」

それは本心から。

ここに居る、流を覗いた五人は自らの意志で此処へ通っている。

バレエがしたくて、きっとバレエが好きで、懸命に頑張っている。

年齢や体格など彼ら自身で自覚はあるだろうし、女性優勢の世界で男性が飛び込むだけでも勇気が要る事だ。

彼らは、同じくバレエが好きな、好きで好きでどうしようもない夏樹にとって、生徒であると同時に同志でもある。

その彼らを侮辱されるのは、我が事のように辛く、腹立ちがある。

自然と鋭く眼差しを流へ向ける。

けれど彼は飄々とした面持ちを浮かべたままだ。

「真面目にしないのであれば外へ。笑い声は迷惑です」

「あんた、俺を追い出して良いわけ?上に言われてんじゃないの?」

「追い出してはいませんよ。真面目にレッスンを受けてくださるなら結構。どうぞ居てください」

「今までのも俺なりの『真面目』なんだけど?先生は生徒の出来で決めるんですかー?」

「いえ、出来で優劣をつける気などありませんよ。真面目にしているなら構いません。ただ、笑い声は『真面目』とは思いませんけどね。さ、時間をロスしてしまい申し訳ありません。左行きましょう」

それが、夏樹なりの精一杯だった。

嫌なら出て行け。

馬鹿にするならこの場に居るな。

綺麗な言葉にも包まず吐き出してしまいたい。

残りのレッスン時間、流が口を開く事はなかったし、出て行きもしなかった。

けれど彼が「真面目」にしているとはどうしても見えない中、夏樹にも笑顔が戻らないまま終わっていった。




    


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