■グリッサード・・・・9



遅くなるとメールがあった黒川に、待てると返信し夏樹は生徒が帰った一人きりのフロアに降りていた。

床を蹴り、飛び上がる。

前に片足を蹴りだし、もう片足をそれ以上に上げながら、身体を反転させる。

降りた足をそのまま次のステップに繋げていく。

「はっ……」

片足を上げ軸足側へジャンプ。

足を変えて反対へ。

流れる曲は白鳥の湖のパドトロワ。

男性のバリエーションだ。

発表会の時に作品集として踊る。

パ・ド・トロワは三人の踊りで、この作品は女性二人と男性一人。

他の発表会でも度々踊られる曲だ。

華やかな曲調である事と、どうしたところで多いバレリーナを二人、一人の男性で構成出来るから。

夏樹の役所は、王子の友人だ。

両足を揃えたまま飛び上がり、空中で二回転をする。

この踊りは他に比べるならばジャンプが多く、自然と息は荒くなっていく。

けれどそれでも、舞台の上では笑みを欠かせない。

表情も演技の内、踊りの内だ。

基本的なステップに男女の差はない。

だが男女では筋力が違うので、ジャンプや回転の最中に行える事が変わり、増えていく。

それがどこまで出来るかもダンサーの技量と言えた。

片足のつま先を膝に添え、ピルエット。

六回転をし、着地と共に片足をついて座りポーズを決める。

ピッタリと曲は終わった。

練習では六回転を回るが、舞台ではもっぱら安定の四回転。

万が一にも失敗は許されない。

もっとも、六回転で身体が覚えてしまうと、いざ本番の時に音とあわなくなる。

六回転はいわば、一人でレッスンをしている時だけのお遊びだ。

立ち上がり乱れた息を整える。

もう一度だとオーディオに向かい掛けた時、誰も居ない筈の階段からパラパラと拍手が聞こえた。

「萩尾さん……どうかしましたか?」

階段の中程に、帰った筈の萩尾が居た。

オーディオに背を向けると、フロアの隅に置いていたペットボトルを取りに行くよう彼に近づく。

彼もまた、頭を掻きながら階段を降りた。

「忘れ物取りに来たらまだ開いてて、下から音したもんですから。やっぱり先生ともなると、凄いですな」

「どれもレッスンでしているパの応用かつなぎ合わせですよ。萩尾さんも踊れるようになりますよ」

「いやいや、儂には全然」

「そんな事ないですよ。萩尾さんは筋力がありますから。空中でのパも練習をすれば難しくないでしょう」

「息吹先生は、やっぱり優しいですな」

歩みを止めペットボトルに口づける。

否定的に手を振りながらも、萩尾はさも照れくさそうに笑った。

「いやね、儂だって自分で分ってんですよ。こんな身なりで、バレエなんて。笑われるのは承知だし、身内にも言えませんわ」

「男性の方は家族に内緒で、という方も珍しくないですよ。それでも頑張って、舞台に呼んで驚かせた方もいらっしゃいますよ」

「そうなんですよね。儂も、今度の発表会で娘を驚かせたくて」

「素敵ですね。頑張ってください」

萩尾だけでなく、他の生徒とも雑談のような会話をした事がなかった。

話してみると気さくで、そして熱意を感じられる。

強面で、どすを聞かせた声も放つ萩尾。

しかし今は照れくさそうに笑うばかりで、畏怖感はなかった。

「先生、無理に答えなくても良いんですが」

「どうしましたか?」

何気ない会話の流れだった。

その為、気を抜いていたというのもある。

ペットボトルのキャップを閉じた夏樹を、どこか真剣な眼差しをした萩尾が眺めていた。

「黒川仁、という男を知っていますね」

「・・・え?」

まさか、萩尾の方からこのような話しがあるとは思わなかった。

一瞬たじろぐ。

けれど事前に黒川から萩尾との関係を聞いていた事と、彼が萩尾とそれなりに親しい事を思い出すと、夏樹は柔らかく笑った。

「はい。親しい仲です」

「そうですか。あいつも、もう俺の事気づいているんですね」

「そうですね」

多くの言葉は無い。

けれど互いにわかり合う言葉。

そこからも、萩尾という人の人となりが見える気がした。

「お互い顔と情報が商売ですからな。あぁ、間違っても儂は、黒川と親しいからといって先生に近づいたんじゃありませんよ」

「えぇ、分ります」

「ただ、聞きたい事がありまして。他の先生にも、クラスメイトにも聞けんで、どうしようかと」

「聞きたい事ですか?」

誰にも聞けない疑問などそう多くあるだろうか。

知らずうちに首を傾げる。

その夏樹に、萩尾は眉を下げきった顔を向けた。

「背中にですね、その、背負ってるもんがあるんですわ。背中だけで、腕とか胸にはないんですがね、それで・・・衣装を着た時、隠れるもんなんでしょうか?折角発表会の練習をしてても、気が気でなくって」

「え?背負って・・・?」

つかの間、彼が何を言っているか分らなかった。

それ程予想外だったと言える。

けれど、さも不安げにする男が、黒川と同業者であり背中に極彩色を背負っている。

そのうえ黒川よりも格上だというのは、どこか可愛い気がした。

決して馬鹿にしているわけではない。

ただ彼を、地位や立場など関係なくバレエを始め頑張ろうとしている彼を、応援したいだけだ。

「衣装がまだ決まっていませんが、大丈夫だと思いますよ。女性と違って男性が背中を露出する衣装は少ないですし、少しならドーランで隠せますから」

「そうですか。良かった。こんな事、他の先生に聞けないでしょう?」

「少し驚かれるかもしれませんね」

「追い出されるかと思いました」

「職業故に追い出す事はないと思いますけどね。前例がないのでわかりませんが」

萩尾が笑う。

吊られたように夏樹も笑う。

発表会当日、彼はどのように踊るのだろうか。

夏樹は舞台袖から見るしか出来ないのが残念だ。

けれど多分、彼なりの精一杯が現れた素晴らしい踊りを見せてくれるのだろうと、今から十分期待出来た。

    

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