偶然か運命か・編・10



 軽く身体を洗うだけのシャワーから上がった智を待っていた綾瀬は、スラックスだけを身につけた格好だった。
 上半身は何も着ていない。むき出しの肉体は、すっきりと引き締まり鍛え上げられている。脂肪を感じさせず、綺麗な筋肉で覆われていた。
「どうした」
「い、いや……」
 益々好みだ。
 ただ、その突っぱねたような話し方以外は。
 甘ったるい言葉や口調は嫌悪すらするので、綾瀬のそれが生理的に合わないわけではないが、どうにもかんに触る。これまでの恋人も似たり寄ったりだっただろうに何が違うのか、言い表す表現は見つからない。
「で、『ご挨拶』は?」
 パウダールームに白い有ったガウンを全裸の身体に羽織った智の前に綾瀬が立つ。十センチ程高い目線から見下ろされるその眼差しは、やはり威圧的な印象ばかりがある。
「僕は、しない」
「しない?」
「言っただろ。僕はマゾヒストだが主従関係には興味がない。僕は家畜でも奴隷でもない。だから、お前に跪く真似はしない」
 SMプレイ前の、マゾヒストからサディストに、奴隷から主人に告げる「ご挨拶」。土下座をし、床に頭を擦りつけながら、「ご調教よろしくお願いします」といったよう事を告げるお決まりの動作。
 ただの、大方日常は対等である関係から、主人と奴隷という身分差のある関係への変化の区切りとなる行為。
 智もSMを始めたばかりの頃はそう教えられたのでそれに従っていた。しかし、いつしか嫌になり、SMの定義とも言える疑似的な主従関係も嫌になった。
「自分がして欲しい事だけを求めるマゾか。エゴマゾだな」
「なっ……だから、お前の好みも聞いただろ」
 エゴスティックマゾ。自分勝手なマゾヒストの総称であり、良い意味では使われない言葉。
 自覚が無かったわけではない。しかし、会ったばかりの、厳密には会うのは二度目だが初めて会った日の事など眼差し以外思い出せない相手に言われて笑っていられる性格ではない。
 ガウンの合わせを握り、眼差しを尖らせる。視線がかち合った綾瀬は、けれど憎らしい程眉一つ動かさなかった。
「根本的に考え方が違うようだな」
「そうかもしれない。だったらどうする?止めるか」
 綾瀬が、智の目の前に立つ。
 暫し睨み合う格好になったかと思うと、次の瞬間。
 パンッ、と小気味良い音と同時に頬に痛みを感じた。そして次いで、自分の頬が綾瀬に叩かれたのだと分った。
 呆然としたように綾瀬を眺める。視線が絡み合ってももう、睨み合いは出来ない。彼の威圧的な視線は、先程までよりも圧を増している気がした。
「家畜でも奴隷でもないと言いながら挨拶も出来ないくだらない人間なんだな、お前は。主従関係が嫌なら俺を主人など思わなくても良い。だが、俺は俺のやり方をさせて貰う。お互い様だろ?」
「っ……」
「俺はお前が人間でも何でも、偉そうな口を叩かれるのは好きじゃない。服を脱いだ後なら余計にな。いい加減口を慎め」
 いきなり頬を叩かれて、腹が立ってもおかしくはない状況。
 だが、智にはそのような感情は起こらない。
 いっそ、有りがたくもある。
 綾瀬は、いわばスイッチを入れてくれたのだ。ただの人間から、虐げられるべき人間になる為の。
 主であるなどとは思えない。しかし彼が、嬉しい事をしてくれる相手なのだというのは、はっきりと身体が自覚した。
「ごめん、なさい」
 綾瀬と再会してから、多分初めての素直な言葉。彼を見上げながら告げたそれは、とてもか細かった。
「分れば良い。来い」
 彼が背を向けて歩き出す。数秒それを眺めた智は、バスローブをその場に脱ぎ捨て早足に綾瀬を追いかけた。
 全裸の身体を覆う物は何もない。身につけているのは強いて言えば眼鏡だけ。身体の中心では、ペニスが軽く立ち上がりを見せ、小さく震えていた。
「ベッドに乗って、四つん這いになれ」
「はい」
 使っていないと言っていたベッドルームは、清潔にメイキングされているようだが、掛け布団だけはベッドの上から下ろされていた。確かに邪魔だ。
 ダブルサイズのベッドがあり、その横にはサイドテーブル。そこにも何も置かれていない。
 ただあるのは、床に置かれた中型のボストンバッグ。私物は置いていないと言っていた中で、それだけがやけに存在感を放っていた。



  
*目次*