花、香る+++1



大通りを走る車も街の雑踏も随分と久しぶりだ。

窓ガラスが太陽の光を反射させる高層ビルを見上げていた片桐正也[かたぎり・まさや]は、ふとビル群から顔を反らした。

古いモデルの携帯電話に財布。

着ているスーツ一式とつい先ほど買ったばかりの煙草とライター。

それが今の片桐の全てだ。

───三年前、当時片桐が所属していた暴力団組織において抗争が勃発した。

先代組長・組長瀬戸[せと]の病死により組織長が代替わりした事による内部分裂で、瀬戸の恩義や流儀を省みない当代の組長のやり方に業を煮やした若頭補佐の一人・荒尾[あらお]とその派閥が反旗を振りかざしての事だ。

その派閥に片桐も居た。

町のゴロツキでしかなかった自分を拾ってくれた瀬戸と、兄のように父のように慕っている荒尾。

そのどちらをも想えばこの身などどうとなっても構わず、それよりも瀬戸を軽んじる男を組長と呼び仕えは出来なかった。

そうして、その抗争は荒尾が当代組長を射殺し荒尾派の一陣が残りの幹部連中を全て殺す事により、組織解散を余儀なくさせ終結を向かえたのである。

死者多数、逮捕者はそれ以上。

逮捕の間際、荒尾はたとえ出所したとしてもヤクザに戻るつもりはなく、誰も帰りは待つなと言っていた。

それが荒尾と交わした最後の言葉であった。

彼の刑期は知らされていない。

組織の幹部が全員死亡した抗争だ。

誰が誰を殺したかなど完全に調べる事は出来ず、全ての罪を荒尾が自ら背負った形となっているのだろう。

片桐自身は幸い銃刀法所持違反に関してのみ罪に問われたので、こうして三年という刑期で出所が出来た。

しかし、模範囚として外へ出てきたものの到底晴れ渡った気持ちになれはしない。

以前とは何もかもが違う。

抗争を起こし組を壊滅させたのは己の意志であり後悔はしていないが、言葉に出来ない虚しさも感じていた。

金も仕事も、帰る場所や待っている人すら居はしない。

ただあるとすれば、塀の中で交わした口約束。

そんな曖昧な物に縋るしか、今の片桐には道はなかった。

「ここから歩いてでも行けるか」

眩しく輝く太陽の下、黒いスーツに身を包んだ片桐は煙草を咥え歩きだしたのだった。




********


街角に立つ地図と電柱に張り付けられた番地を確認しながら目的地を目指す。

予想よりも時間が掛かってしまっているが、明確な約束をしている訳ではないので構わないだろう。

そもそもこの『約束』自体、相手が覚えているかも定かではない物だ。

ただの口約束でしかなく、その場限りの言葉だったのかも知れない。

馬鹿正直に出向いたところで追い返される可能性が高いと思いながらも、けれど片桐は心の隅であの男を信じたいと思っていた。

「こっち・・・で、あってるな。住宅街ン中にあんのか・・・」

閑静な住宅街の真ん中に片桐はなんとも不釣り合いだ。

黒いスーツに濃い青のシャツと黒いネクタイ。

少し長めの前髪は後ろに撫でつけ、塀の中でもトレーニングを欠かさなかった身体はがっしりと引き締まっている。

加えて生まれつき太い首と広い肩幅、180cmを越す身長が必要以上に屈強な印象で、到底真っ当な勤め人に見えはしない。

面立ちにしてもそうで、切れ長のつり目や薄い唇で全体的に日本的な男前であるが、それよりも厳めしさばかりが強調されている。

しかし目的の場所がこの先にあるというなら、精々不審者だと通報される前にたどり着く他にない。

それは今から一年以上前だ。

数ある刑務所の中でも暴力団員が多く収容されているそこで、片桐は一人の男と出会った。

新垣俊之[にいがき・としゆき]。

地堂組[ちどう・くみ]組長を務める男で、年齢は五十代そこそこ。

年の割に鍛え上げられた肉体も、いかめしく強ばった面立ちも、そして背中に描かれた極彩色も、どこからどう見ても極道だ。

そして片桐は、同室になった彼と言葉を交わし合う内に、どこか彼の中に荒尾や瀬戸に似た物を感じるようになっていたのである。

極道としての男気とでもいうのか、男が男として惚れるものを新垣は持っていた。

新垣もまた、片桐に感じるものがあったのだろう。

彼の出所前日に告げられた言葉を、片桐は今でも一語一句忘れはしない。

『ここを出たら真っ先にうち来い。拾ってやる』

ニヤリと笑う新垣の眼差しは至極真剣で、そこに嘘や冗談は見出せなかった

出所したら真っ先に。

それはただの口約束かそれとも。

新垣が一方的に告げた約束を果たす為、片桐は地堂組本部を目指しているのだった。





*目次*