光るほど鳴らぬ   ちょい読み [本文より抜粋]



都心からは離れた歓楽街。

寂れた雰囲気すら漂うその一角にバー・tomorrowはあった。

若者が好むようなき近代的な印象は無いが、中年から高齢の者が好みそうな昭和の香りもし
ない。

かといって、高級ホテルにあるような鮮麗されたものがあるでもない。

特別な物も独特の雰囲気も何もない、良くも悪くも当たり障りのないバーだ。

その店で、多田 智之[ただ・ともゆき]はバーテンダーを勤めていた。

「ロックでよろしかったですか?」

面前の男のキープボトルを手に、口の広いロックグラスに氷とブランデーを注ぐ。

バーテンダーなどと言ったところで、智之の仕事ぶりはその程度だ。

もう一年近く働いているので自然とアルコールの種類は覚えたし、カクテルも両手以上の種
類のレシピは頭に入っている。

だが、それだけだ。

特殊な技術を持っている訳ではないし、アルコールのマニアックな情報を持っている訳でも
ない。

ただ頼まれた酒を調合して注ぐだけ。

そのうえ、このバーの客の多くはカクテルではなくボトルのアルコールをロックか水割りか
ストレートで飲む人が多い。

アルコールに対する技術だけを言えば、バーテンダーというよりもスナックのホステスに近
い。

けれどあまくでアルコールを作るのが仕事で、会話は二の次だというのが彼らと智之の違い
だろうか。

当たり障りのないバーの、形だけのバーテンダー。

それが多田智之だ。

定休日は毎週月曜日。

スタッフは智之だけで、他にはオーナーが居るだけ。

そのオーナーは滅多にカウンターに立つ事もなく、いつもバーテーブルの隅で飲んだくれて
いる。

やる気の無さが全面に押し出されたような、それも寂れた歓楽街の中でこの店が存続し続け
られるのは、今は智之のおかげとしか言いようがなかった。

「あぁ。覚えてくれてたんだな。暫くぶりに来たから、忘れられてるかと思ったよ」

「そんな。忘れるわけありませんよ」

黒いカマーベストに黒い蝶ネクタイ。

白いシャツと黒いスラックス姿の智之が柔らかく唇の端を釣り上げた。

場末の歓楽街の、更に場末のパッとしないバー。

そこで智之は十分な花だった。

年齢は26歳。

水商売はこの店が初めてで、夜の世界に慣れていないが故の初々しさがある。

日本人男性の平均並の身長と、ひょろひょろと細身の身体。

襟足が肩にかかる程度に伸ばされた髪は黒く、その下で白い面立ちが引き立てられている。

全体的に男臭さが少なく、どちらかといえば綺麗に整った容姿。

それは少なくとも照明の落とされたバーの店内では目を引きつけるものを持っていた。

「智之のいれた酒は旨いな」

「そんな……ありがとうございます」

古い歓楽街で、男がカウンターに立っている店自体が少ない地域だ。

それも中年のマスターではなく、若いノリしか知らないホストでもないといえば希少な存在
である。

そんな中、夜の擦れた雰囲気を持たない智之を気に入ってくれ店に足を運んでくれる人は男
女共に増えていた。

「お前も飲むか?」

「えっと、あんまりお酒に強くないんですが……」

「知ってる。無理にとは言わんが」

「あ、じゃぁ、ウーロン茶でもいいですか?」

「バーテンがウーロン茶ってか」

「す、すみません」

「いや。お前の好きにすれば良いさ」

男がおかしそうに笑う。

その声に赤面を感じながらも、智之は足下の冷蔵庫から小さなウーロン茶の缶を取り出した


この男もtomorrowの常連客の一人である。

元々この店に顔を出していたようだが、智之が勤めるようになってその頻度は飛躍的に増え
たのだと以前オーナーが独り言のように言い教えてくれた。

「いただきます」

男のグラスにウーロン茶入りのグラスを小さくぶつける。

グラスの中で互いの氷が転がり、静かにBGMが掛かるばかりの店内にそれは賑やかな音と
して響いた。

「ノンアルコールのカクテルもあるだろうに」

「あ、言われればそうですね」

「ウーロン茶よりカクテルの方が高いだろ?」

「え? あぁ、それもそうですね。全然考えつきませんでした」

ウーロン茶を飲みながら智之が苦笑を浮かべる。

この店で働き始めるまで居酒屋以外の飲み屋に行った事がなく、働き始めてからもオーナー
に二度か三度スナックに連れて行ってもらっただけだ。

バーテンダーをしていても智之には水商売をしているという自覚が薄く、仕事中に飲み物を
勧められる事、それが売り上げに繋がる事がなかなか慣れない。

ここはホストクラブやボーイズバーではないので、必ず飲まなくてはならない訳ではないと
いうのもアルコールを勧められるのに慣れない要因の一つだろう。

「じゃぁ、もし次があればノンアルコールカクテルを頂きます」

「あぁ、そうしとけ。俺も売り上げに貢献したいからな。この店が潰れられたらたまらん」

冗談めかして言いながら男が煙草に触れたので、智之はマッチで火をつけた。

現在この店は智之でもっていうようなものだが、その中でもこの男・榊 詠二[さかき・え
いじ]の存在は大きい。

榊の前に置かれているのは、元々は店にストックをしていない高級ブランデー。

それを彼は、空ける空けないに関わらず毎度一本ずつ降ろして帰る。

加えて、フードやビールもオーダーし、オーナーや智之にもアルコールを勧めたりと、どう
にか金を落とそうとしてくれているようであった。

彼が何故この店にそのような事をしてくれるのか解らない。

他の店でも同じくなのかも解らないが、ただ彼のような職種の人間であればそれも容易なの
ではないかと思えていたので、智之は彼の行為を素直に受けていた。

直接聞いた訳ではない。

これもまたオーナーが独り言のように言っていた話だが、榊はこの歓楽街とその先にあるホ
テル街を縄張りとする暴力団組織の幹部だという。

それ以上の事はオーナーも言ってはくれなかったが、言われて見ると榊がヤクザであるとい
うのはしっくりときた。

年齢は三十代半ばから後半だろうか。

太い首と広い肩幅、それにつりあう厚い胸がやけにスーツが似合う男だ。

いつも微笑を浮かべているが、瞳だけは研ぎ澄まされたなかなかの二枚目。

夜中近くになっても乱れていない髪は後ろに撫でつけられ、いつも黒系統の皺のないスーツ
を着ている。

シャツの色は毎度違ったがけれど白や水色などではなく濃い色である場合が殆どでそれがな
んとも勤め人には思い難かった。

何より、節だった手は古い傷がありゴツく痛みを知っている手をしていて、その眼孔は鋭く
研ぎ澄まされている。

智之の前ではいつも笑みを浮かべているが、身に纏う威圧感を恐ろしく感じる時もあった。

もしもこのカウンターを挟んで出会っていなければ、智之は榊を見て逃げ出していたかも知
れない。

けれど今は。

榊はどの客よりも優しく紳士的であるとよく知っていた。

「智之の入れてくれた酒は旨いな。疲れが全部消えちまうみたいだ」

「そんな……僕はただ」

大層な事など何もしていない。

ただ氷蔵機から取り出した氷と、高級ブランデーをグラスに注いだだけだ。

誰が作っても同じ、否、きちんとした本物のバーテンダーが作ればこの何倍も旨いに決まっ
ている。

謙遜というよりも心から否定するように慌てて手と首を振ると、榊は鼻で笑ってみせた。

「俺がそうだって言ってんだ。否定するなよ」

「否定だなんてそんな。でもその……」

「ンなもん、笑って礼でも言っとけ。バーテンダーだろ?」

「あ……はい。ありがとうございます」

榊が智之のいれたアルコールが旨いというなら、智之も榊に進められたウーロン茶を特別旨
く感じる。

今は仕事中だ。

解っている。

けれど榊の前にいると気が休まる気がした。

ただの場末のバーテンダーと、この一帯を統べる暴力団の幹部。

何の接点もない二人だが、ただその性的趣向が同じであるといつからか互いに知ってしまっ
た事も、智之が榊に気を張らずにいられるのかも知れない。

榊の指が、ウーロン茶入りのグラスを握る智之の手に触れようとする。

その意味を察し、智之は榊に触れられる前にさりげなく手を引いたのだった。