必然+++



つい数日前まで風の冷たさにコートの前を掻き合せていたが、今夜はスーツのジャケットだけで十分だ。

元々数少ない店舗の明かりは既に落とされた駅前。

離れた駅舎から届く明かりと街灯だけが頼りの下で、唇に煙草を咥えた元木はふと立ち止まった。

「あれ・・・マジか・・・」

片手で風を遮りながら、もう片方の手でライターを押す。

今はもう販売禁止となっている簡易式の使い捨てライターは煙草屋のおまけで貰った物だ。

愛用の煙草ブランドとは異なる銘柄のロゴがプリントされ、特別気に入っていた訳ではないが、ただ手に触れる機会が多くここ最近頻繁に使用していた。

それがいつからだったのかは覚えていない。

だが昨日今日というわけではなく、繰り返し発火石を打ち鳴らしても着火しない辺り寿命が来たのだろう。

元より景品のライターで、愛着はない。

どこかで置き忘れたところで慌てもしない代物だが、今、煙草を唇に咥えてしまった状態では困り物だ。

「これしかねぇのによ・・・」

諦めきれずにライターを押し続ける。

そうしながらも視線を上げてみたが、やはり辺りにはコンビニエンスストアはもちろんながら居酒屋一つ開いていない。

ライターを購入する事も火を借りる事も出来ない状況に、耐えきれず肩で息をついた。

電車を乗り継ぎ四十五分、ようやく吸えると思った煙草が口に咥えた後に吸えなかったショックは大きい。

「仕方、ないな・・・」

自宅まで徒歩十分を耐え、部屋のどこかしこに転がるだろう使い捨てライターを手にするしかなさそうだ。

途中コンビニエンスストアがあるにはあるが、あまりに自宅に近すぎて喜べない。

一度唇に咥えかけた煙草を指先で取り、一瞬迷った末にそれを煙草ケースには戻さず裸のままジャケットの胸ポケットへ入れようとした。

「お貸し、しましょうか?」

「あ?・・・え?」

だが指先がジャケットのポケットに触れた時だ。

それと同時に背後から声を掛けられたかと思うと、元木は反射的に振り返った。

「火、お貸ししましょうか?」

「・・・あんた、なんで」

振り返った先、薄暗い街灯に照らされている一人の男に目を止め息を呑む。

声だけでは分からなかった。

それもそうだ、元木はその声を知らない。

黒髪に黒のメタルフレームに細面。

何度見たところで彼は、毎朝決まって同じ時間の同じ車両に乗り合わせるサラリーマンだ。

ただそれだけであるし、それだけの関係ならば彼一人という訳でもない。

だというのに、終電近くの駅前で声を掛けられたのが彼というのは、他の誰よりも動揺した。

「もしかして、僕の事知ってくれてたんですか?」

「そりゃ、だって・・・」

「だって?」

「いや」

「要りますか、火?」

「あぁ。すまん、貸してくれるか?ありがと、助かった」

彼がポケットから取り出した、細身のオイルライターを着火させる。

胸に仕舞い損ねた煙草を再び唇に咥えた元木は、先端を火に触れさせるとフィルターを吸い上げた。

暗がりの中でライターの燃え上がる火と、煙草の先端の丸い火が浮き上がる。

煙草に火を移しても立ち尽くすばかりの彼に、元木も足を踏み出せずアスファルトを眺めてそれを吹かせた。

「僕の事、知ってたんですよね?」

「・・・あぁ」

「僕もです。でも僕は、ずっと機会を、探してたんです」

彼の声が、潜められる。

遠くで車のエンジン音が聞こえるばかりの歩道は静まり返り、その言葉はやけに印象的に響いた。

続ける言葉が見つけられない。

足元を見つめていた目を無意識にあげると、ふと彼と視線のかち合った。

「些細な切っ掛けから、挨拶を交わし合う仲になりたいな、って」

煙を、吐き出す。

街灯の明かりだけが頼りの此処では、彼の顔も細部までは分からない。

ただ思い出したのは、こうして正面を向きあったのは初めてだろう事だ。

ぎこちなく、彼が口角を釣り上げる。

元木の中で何かが崩れた。

「挨拶、だけであんたは良いのか?」

「・・・え?」

「挨拶なんて、駅員とでも交し合えば良いんじゃないか?」

片方の手が唇から煙草を取り上げると、もう片方の手で未だライターを弄ぶ彼の手首を握った。

いつからだったか、見ていたのは伸びた背筋と意思の強そうな眼鏡の奥の眼差し。

毎朝毎朝同じ車両を選んで乗ったのは、ただそこに彼が居るからだ。

彼は元木の手を振り払わない。

一歩踏み出し距離を縮めると、近くなった距離の分だけ彼は元木を見上げた。

「自分だけ、みたいに言うなよ」

「え?」

「俺だって、ずっと探してたんだ、機会を。それも半年間もな」

顔以外何も知らないこの男と言葉を交わせたら良いのにと、考え始めたのが紅葉の季節だったとはっきりと覚えている。

秋の空を窓越しに眺める彼の横顔は、忘れられない。

だが挨拶だけで良いなどとは思えず、あわよくばこうして手を取り合う関係になりたいと、今朝の車内でも脳裏を過っていた。

ライターを弄んでいた指先が止まる。

元木を見つめ返した彼は、一瞬呆けた顔の後に静かに笑った。

笑みを見たのは初めてかもしれない。

それは想像以上に、元木の胸を擽った。

「僕は七ヶ月です」

「・・・ぁ」

「願えば、叶う物ですね」

自由な彼の手がライターを取り上げそれをポケットに落とすと、空いたばかりの指先は、その手首をつかむ指へと絡められた。

自分の指よりも細い指の感触。

二人の男の指と指が、一つずつ交じり合う。


半年と七か月、それぞれ待ち続けたきっかけを決して逃さないように。



【おわり・続きません】
*目次*