人生の門出・編・2



待ちに待った引越しも無事完了し、新居にも慣れ始めた四月某日。

新米教師の第一歩として入学式に出席している幸田に知られぬよう、三城は一人内密に実家に帰って来ていた。

何故そんなコソコソとしているのか。

理由は簡単だ。

両親──主に母・沙耶子【さやこ】にそうしろと言われたからだ。

『話があります、恭一さんに内緒で来なさい。』

数日前、仕事中を狙ってかかってきた電話で沙耶子はそれだけを述べると、明確な用件は何も言わずに通話を切ってしまった。

こんな事は初めてだったが、そうと言ってくるにはそれなりの理由があるのだろうと判断し、日曜で更に幸田が出勤している本日、三城は指定通り東京郊外にある実家へと戻って来たのだ。

忙しいかった事に加え特に用事もなかったので、三城がここに訪れたのは実に4ヶ月ぶり、正月の帰省以来だ。

いつもと変わらず隅々まで手入れの行き届いた綺麗な室内。

リビングではなく、応接室──正月に幸田と訪れた際と同じ部屋で三城は言えぬ緊張を抱きながら両親を待っていた。

こんなかしこまった席を用意され、何を言われるのか怖い。

数日後には20代も最後の29歳になる男が、「怖い」とはみっともないと思うのだが、けれど待ち受けているのはあの両親だ。

二人とも弁護士で弁が立つことこの上ないし、冬樹・秋人・春海を立派過ぎるほど立派に育て上げた両親が只者であるはずもなかった。

「だが、なんだって言うんだ・・・」

進路を決めた時も、就職を決めた時も、初めての大きな買い物・以前のマンションを購入した時も、株やFXを始めた時も、人生の要所要所ですら特にこんな事はなかった。

二言三言質問され、完結に答えればそれで終わりだったというのに。

こんな場面を用意される内容をどんなに掘り下げて考えても思いつかず、強いて言うならば幸田との関係だろうが、正月時の対応を思うに今更──あのときから4ヶ月もたってから「実は反対だ」など言うとも思いがたい。

自分で言うのも気恥ずかしいが、意思がはっきりとしており二言のない立派な方々だと尊敬している両親だ。

珍しく三城がループの思考に陥り悶々とし始めた頃、応接室の扉が開くと三人分の湯飲みを盆に乗せた沙耶子とほがらかに微笑む父・大治【だいじ】が現れ、三城の向かいの席へと腰を降ろした。

「待たせて悪かった、春海。休日だというのにクライアントから連絡があってな。」

「かまいません。父さんが多忙なのは知っています。」

「そうだな、身体が仕事量に追いつかなくなってきている。そろそろ引退も考える年だ。」

大治は愉快そうに声をあげて笑った。

引退など露ほども考えていないか、もしくはそれも一興と思っているのか、「年」を取る事を惜しくはないのだろう。

サバサバとした考えは心にも身体にも良いのか、60代も半ばだというのに大治の肌は若く表情も実に生き生きとしていた。

「何を。まだまだ最前線ではないですか。」

「いやいや、年には敵わんよ。それに最近は特に冬樹がよくやってくれている。あれに任せても問題はないだろう。そうだ、冬樹が弁護士として現場に立つなら、お前が経営でサポートしてはどうだ?」

「まさか。ご冗談を。」

学生時代に「事務所は継がない」と宣言しているというのに、今更そんな事が言えるわけがないし、それ以前に今の仕事にも地位にも向上心はあるものの特別な不満もない。

それよりも冬樹と共に仕事をする方がよほどぞっとする。

「そうよ、お父さん。春海が会社を辞めたら困るって社長さんからもお電話があったでしょ?」

「そうだったね。」

「そう、なのですか?」

初耳だ。

それはあれか。

例の海外転勤の話が持ち上がった際に、三城が「辞令の取り下げを聞き入れて下さらなければ、退社も辞さない覚悟です。」と言い結局は無事に辞令の取り下げを奪い取ったのだが、会社側としては万が一を阻止するために両親にまで連絡を入れていたのだろう。

そして、それを今の今まで知らなかったなんて。

「貴方、本社への栄転のお話を断って日本に留まったんですってね。」

沙耶子がお茶を配りながら、なんでもない明るい口調で言ってのけたが、その瞳はいたって真剣で笑ってなどいなかった。

「・・・えぇ。それには色々と・・・」

「色々というのは恭一さんの事でしょ?春から高校で先生ですって?夢だったのよね、良かったわね。」

「え、えぇ。」

幸田が春から転職をするという事に関しては、「一応『嫁』だから」という本人の意向で三城の両親には既に伝えてあった。

肉親の居ない幸田にとって、三城の両親は限りなく「親戚」に近い存在なのだろう。

「恭一さんの為に、昇進や地位を諦めたのね。」

「恭一の為に諦めた訳ではありません。自分が幸せを掴む為に最善の道を選んだだけです。」

誰かの「為に」などという一方的な押し付けで将来を選んだつもりは微塵もない。

ただ自分の幸せは恭一と共にあり彼が笑っている事である、と確信したからの行動に過ぎなかった。

「そう、それは良かったわ。もし恭一さんを置いていくなり、夢を諦めさせて無理矢理連れて行くような事をしたなら、貴方とは絶縁をしていたもの。」

沙耶子は一際ニコリと輝かしい笑みを浮かべて見せた。

全く優しげの無い笑みは、彼女の得意技だ。

「それでね、貴方達一緒に住み始めたでしょ?新しい家まで買って。」

「えぇ、前の家は俺の一人用でしたから。手狭で。」

広いとは言え2LDKのマンションは、空間だけは余る程度にあったものの、自分の城に幸田を詰め込むような真似などしたくはなかった。

「六本木のマンションなのよね?素敵ね。今度お邪魔してもいいかしら?」

「是非。恭一も喜ぶと思います。」

ニコニコと微笑む沙耶子の真意が読めない。

まさか雑談をする為だけに呼び出した訳ではないだろう。

探るような視線を隠す為華麗な営業スマイルを浮かべた三城は、実母に警戒心を張り巡らせたのだった。



 
*目次*