クライン×北原・08


すっかり失念してしまっていたが、今日は金曜日だ。

という事は、明日は当然土曜で会社は休み。

週末二日の休日が明ければ三城は帰国しており、北原は本来の業務に戻る。

クラインのサポートに当たるのは今日で最後であると、何故だか頭から綺麗に抜け落ちてしまっていたようだ。

人気の無いエレベーターの中、唐突にそれに気が付いた北原は思わず抱えていた書類の束をばら撒きそうになった。

当たり前にやって来た最後の日。

元々短い期間であると解りきっていた筈だというのに、不思議ともっと先のような気がしてしまっていた。

次の月曜日にクラインの支社長襲名の挨拶が社内放送であり、それに伴うセッティング云々は北原が行っているからだろうか。

そこにばかり気が向いてしまい、クラインのサポートから離れるまでの残り日数など考えもしなかった。

単純な物忘れなど、自分自身の愚かさにため息も出ない。

それどころか胸が詰まる感覚を覚え───激しい焦燥に襲われた。

この生活が終わりを迎える。

それはビジネスライフにだけ当てはまる事なのか、プライベートも含めてなのかは解らない。

けれど確実に「何か」は変わってしまうのだ。

「っ・・・」

エレベーターの軽快な到着音が、やけに大きく感じられた。

必要以上に肩を震わせてしまった北原は、縺れるような足つきで慌ててエレベーターから降りた。

一つの私的な考えに囚われて他が疎かになるなど、通常の北原らしくもない。

こんな情け無い姿を知られてしまえば、三城はもちろんクラインにも失望されてしまうのではないか。

唇を結ぶように硬質な表情を浮かべ、北原は目的の部署へ歩いて行った。

日本支社に来て以来クラインは細々とした雑務をこなしているのだが、その成果はすぐさま社内の至るところで現れていた。

平社員個人の些細な不満や疑問を的確に対応した結果、社内全体のビジネス効率が確実に上がっている。

それに平行するようにクラインの評判もとても良く、この分では彼が支社長に襲名した所で反発分子は極僅かだろう。

大抵の社員はクラインを「突然本社から来た社長の息子」ではなく、きちんと実力を認めた上で着いて来る筈だ。

その上、元々有能として評判高い三城が副支社長に就くとなれば怖いものはない。

今やクラインの秘書役として有名になってしまった北原は無駄な視線を集めながらフロアを進み、目的の人物に書類の束を渡すと代わりにサインを貰う。

無愛想にそっけなく短い言葉をかける北原に担当者は何か言いたげであったが構わなかった。

世間話も噂話も北原にとっては無駄以外の何ものにも感じないのだ。

パーテーションで区切られている部署を横切り、先ほど乗ってきたばかりのエレベーターへ足を向ける。

早く戻らなければ。

戻れば既に新しい仕事が待っているだろうし、もう直ぐ休憩時間なのでそれまでに終わらせるべき用件もある。

時間が足りないとばかりに早足だった北原は───不意に耳に入って来た言葉に思わず足を止めてしまっていた。

「──だよね、CMOって」

「っ・・・・」

道草を食ってしまっている自分が信じられない。

一つ息を吐きながら横を向けば、声が聞こえてきたそこは喫煙スペースだ。

世の禁煙ブームの前から日本支社内はオフィスでの喫煙は禁じられている。

代わりに廊下の一角に広めの喫煙スペースが設けられており、最新設備のそこは申し訳程度のパーテーションでしか仕切られていなくても煙も臭いも広がらない。

大きく特殊な灰皿の前に二人の女性の後ろ姿を目撃し、北原は知らず知らずのうちにパーテーションの影に隠れていた。

クラインの役職名が聞こえて来た。

だたそれだけである筈だというのに。

「・・・・」

こんな事をしていても何にもならない。

早く行かなければ、と思った矢先に耳に届いたのは、先ほどよりもはっきりと聞き取る事の出来たそれも覚えのある声であった。

「あーぁ、また出たよ真由美【まゆみ】の悪い癖」

「えぇーだって、カッコイイじゃない、CMO」

サバサバとした口調の女性に対し、真由美と呼ばれた女性は甘ったるい声を作った。

間違いない。

彼女は秘書課の中でも美人だと有名な田村真由美【たむら・まゆみ】だ。

専用の事務室があるフロアの給湯室では秘書課と鉢合わせる場面が多い。

だからといって一々挨拶以上の言葉は交わさないし、ましてや北原が顔と名前を全て覚えるなどありえない。

けれどその中でも真由美をはっきりと記憶していたのは、他の秘書課社員の噂話を否応なしに耳にしているからだろう。

前・支社長を始めとする重役クラスから若手ホープまで、その美貌から相当色んな男を渡り歩いているらしいと、それも実名の名指しで語られれば右から左に流すのは北原とて容易にはいかない。

百戦錬磨の名を欲しいままにしていたと言われれば話半分で聞いただろうが、その中で唯一三城だけは靡かなかったと聞けば噂話の信憑性が一気に増すというものだ。

そんな曰くつきの真由美がクラインを「かっこいい」と言った。

ならば続く言葉は想像出切るというもので───

「CMO、いつまで日本に居るのかなぁ。狙ってみようかなぁ」

「またそんな簡単に言っちゃって」

「簡単よ。大抵の男は私に弱いんだから」

「おーおー言うじゃない。じゃぁ末は社長婦人ですか?」

「それもありね」

どこまで本気で話しているのか。

楽しげに笑う女性と、あくまで自信満々な様子を揺るがさない真由美。

今は視界に映っていなくても、彼女がどのような表情を浮べているのか想い描ける気がした。

もしも───抜群のプロポーションを持つ絶世の美女に誘われたならば、クラインはどうするのだろうか。

『「今日は嫉妬しちゃう日」』

「・・・・」

今朝聞いたばかりのうさぎのアニメ声が脳裏に蘇る。

激しい焦燥は北原を焼いてゆく。

TV番組の占いも、美女の戯言も、今の北原には「バカらしい」と笑い飛ばす事が出来ないのであった。




  
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