村崎郁の日常=組長と濃紺の首輪=   ちょい読み [本文より抜粋]




何故、現状があるというのか。

何処で選択肢を間違えたのか。

そもそも、『間違えた』のだとはっきりと言い切れるのか。

携帯電話を握りしめ、岸辺雄大[きしべ・ゆうだい]はシティーホテルの一室で眉間に皺を寄せた。

この客室の予約を取るのももう片手で数える以上の回数になっているだろう。

普段ならば岸辺が自らホテルの予約を取る事などない。

そんな物は全て部下任せだ。

だがどうにも彼と会うホテルを抑えるのを部下にさせる気にはなれず、いつも人目を避けながら自らで行っていた。

慣れない事に始めは戸惑っていた予約も今は慣れたもので、そう考えればそれもまた己の変化の一つだと自嘲の笑みが唇に上がる。

───岸辺は広域指定暴力団香坂組・顧問であり、傘下団体加納組・組長だ。

その肩書きに相応しく、太い眉も鋭い眼光もどれも恐ろしくが厳めしい。

身長は170cm前半であるが、四十八歳にしては随分と鍛え上げられた肉体がその威圧感を更に増させていた。

黒系統のスーツに、派手な色のネクタイが定番。

笑みの一つも浮かばない唇。

水商売や風俗の商売女ばかりであったとしても、今まで女に不自由をした事のないどちらかといえば二枚目の面立ち。

だがここ数ヶ月、岸辺は玄人であれ素人であれ、一度たりと女の世話にはなっていなかった。

その必要がなかったとも言えるし、そうと出来なかったとも言える。

「まだ、時間はあるか……」

彼はいつも、約束の時間通りには来ない。

五分遅れて来る時もあれば、一時間以上早くに来る時もある。

だがその全てを岸辺は受け入れなければならないし、彼が来た時には絶対にこの部屋にいなければならない。

つまるところ、約束の時間などあってないようなものなのだ。

彼にとって岸辺には時間を合わせる価値もないのだろう。

岸辺が他者に、それも組織内では格下である筈の男から、このような扱いを受ける事は普段ならばありえない。

だからだろうか。

そのような扱いの新鮮さも、岸辺に今を与えているのかもしれない。

「……はぁ」

一応の約束の時間まであと三時間もある。

さすがの彼もこれ程早く姿を見せはしないだろう。

まだ来ぬ待ち人を思い、岸辺は一人掛けのソファーに座ると瞼を閉ざし長いため息を吐き出した。

この席を、彼は好んで座る。

きっとこの後もそうするだろう。

もっとも、その姿を岸辺が見る事を許されるのかはまだ分からない。

「なに、やってんだろうな……」

岸辺が彼と出会ったのは、半年近く前の事だ。

正確に言えばそれまでも互いに存在は知っていた。

けれどただすれ違うだけ。

挨拶程度はしていても、いつも彼の前には二人の男が居たし、岸辺も前か後ろに他の男を従えている事が殆どで直接言葉を交わした事は無かった。

いつも彼の前に立っている直属の上役は、現・香坂組長の嫡男であり、若頭・香坂甲斐[こうさか・かい]だ。

極道社会は世襲制ではない。

しかしその実力から今もっとも次期組長に近いと言われている男である。

噂に聞く香坂甲斐という男は、確かにこれだけの組織を統率するに相応しい人望を持っているようだ。

だが、だからといって皆が皆それを受け入れられるとは限らない。

岸辺にしてもそうであった。

まだ三十代も前半の青二才。

親の力を借りて今の地位を得たような若造だ。

香坂組長には恩義があれど、それは香坂組長に対してだけであり、その息子にまで向くものではない。

香坂組の中にはそういった連中がおり、『反・香坂甲斐派』とされていた。

自身がそうであると公にしている者もいれば、表面では香坂甲斐にへつらっている輩もいる。

岸辺はといえば、当初は良くも悪くも公言をしていなかったのだが、ある時反・香坂甲斐派であり最高顧問の地位につく西田に声を掛けられ、立場の差故に断れず彼と行動を共にする場面が増えてから隠すことも出来なくなっていた。

会合や定例会で香坂甲斐と会う度に、西田は幼稚にも思える陰口を大声で叩いている。

それに大して岸辺は曖昧な言葉で調子を合わせ、香坂甲斐の取り巻きは特に何もしてこない。

だからこそ、香坂甲斐の一派は腰抜けだと余計に西田は物笑いにしていた。

そんな中、半年程前の事だ。

その日何の前触れもなく、自身の事務所の駐車場に彼が居たのである。

何度も香坂組本部で顔を合わせている、香坂甲斐の片腕の一人だと知られる男。

その彼が、たった一人で岸辺を待ち構えていた。

香坂甲斐は自身の組組織を持たない。

故に彼も香坂個人の駒の一つでしかなく、岸辺同様に正式な香坂組員であったが、若頭補佐である彼は顧問の岸辺よりも地位が低い。

本来ならばアポイントも取らずに押し掛け、それも反発する男の側近であるなど、殴ってでも追い返していただろう。

けれどその時は、到底そうと出来なかった。

今思えばその時から二人の関係は始まっていたと思える。

二人で話をしたいと彼がいうのでホテルに部屋を取った。

それが、今も岸辺が彼を待つこの部屋だ。

「───郁さん」

香坂組若頭補佐・村崎郁[むらさき・かおる]、それが岸辺の待ち人の名であった。