大きな宝石・4


二人が一緒に暮らし始めて、2ヶ月が経った。

ソラは相変わらず来た当初と同じ様に、空を眺めながら穏やかにゆっくりとした生活をおくっていたが、シンホはそうは行かなかった。

以前は当然の様にしていた残業や休日出勤も、ソラが来てからというもの疎かにしていたのだ。

元々人間関係の達者な方ではなかったシンホは、同僚から疎まれがちになった。

けれど、そんな事は気にはならなかった。

同僚の一人からあからさまな嫌味を言われ、一度は心を入れ替えて仕事に専念しようともしたが、定時の5時を過ぎると自然とソラの顔が脳裏を過ぎる。

早く帰って、会いたい。

その想いを支えに早急に仕事を済ませてしまう、という選択肢はシンホにはなかった。

気がついた時にはいつも同様、空に近い鞄を手にしてオフィスを飛び出していた。



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ガチャガチャと、鍵が開く音がする。

すると、ソラは何をしていても玄関に飛んでいった。

とは言っても、短い足で走るので何度も転びそうになる。

大抵の場合はシンホが扉を開く方が早く、そんなソラの必死な姿を目にした。

心底嬉しそうな笑顔を浮かべて、早く早くと向かってくる様子は主人の帰宅を待ちわびていた愛犬そのもので、なんとも愛らしい。

「ただいま」

胸の中に小さな身体を収めて、強く抱きしめる。

もう他の何も要らない、という錯覚は何時の時代の恋人達にも陥る罠だ。



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現実は甘くなく、容赦の無いものだ。

翌日シンホが出社すると、部長からの有無を言わさぬ呼び出しがあった。

仕事を何一つする前にたっぷりと説教をくらう。

昨日シンホはさっさと帰宅したが、それがまずかったようだ。

書類の提出期限は今日中ではなく、今日の朝一番だったらしい。

部長が出社した時点で出来ていなかったと、ガミガミと実の無い小言を言われた。

それなら直ぐにでも作業をさせてくれ、とすら思う。

部長がそれに気がついたのは、1時間以上一人で喋りまくった後だった。

余計に時間が無い中で、シンホは黙々と仕事をした。

そうしている間にも、新しい仕事は次々と舞い込んでくる。

なんだ、これは。

いつも以上の量じゃないか。

ふ、と視線を上げると、ニタニタと笑う同僚達の顔があった。

それらは視線が合うと直ぐに顔を反らす。

あぁ、そういう事か。

日ごろから、皆が自分に対して不満を持っていた事は感じていた。

これは大人気ない奴らの嫌がらせなのだと、はっきりと気がついた。

今懸命にしている書類の件が気に入らないのだろう。

催促の電話が何度もかかってきているし、運悪くその電話を取った同僚達が先方の叱咤に合っている。

嫌がらせも仕方が無いか。

諦めのため息を吐き、仕事に戻った。



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終電近くの電車に揺られながら、シンホは浅いため息をついた。

暫く深夜残業が続いている。

ソラが来てからというもの、定時近くで帰っていたつけが一気に回ってきたのだ。

それは仕事の量だけではなく、対人関係も含んでいる。

窓ガラスに写る疲れきった自分の顔を見つめて、更にため息が漏れた。

今までの人生は良くも悪くも目立たなっかたし、それでいいと思っていた。

温厚で謙虚で。

そうしていれば無難に生きていけると感じていた。

それが変わってしまったのは、確実にソラの存在があってだろう。

四肢の備わっていない、幼い顔が浮ぶ。

早く帰りたい。

自分を待ちわびてくれている存在なんて、そう居ない。

恋人もここ数年はなかった。

もう30歳も越え、特に出世している訳でも、顔が良い訳でもない「おじさん」にそんなものは簡単には作れない。

だからといって、合コンだお見合いだと駈けずり回るタイプでもない。

ましてやソラのように素直に真摯にシンホと対してくれる人なんて、過去に遡っても見当たらない。

「あの子には、僕が居ないとダメなんです」

誰に言う訳でもない呟きが、電車の滑走音にかき消される。

スッと細められた瞳は、憎しみすら宿っていた。



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疲れきった面差しで帰宅の路につく。

自宅に着いた頃にはとうに日付は変わってしまっていた。

無意識に鍵を慎重に静かに開ける。

小さなカチャンという音も、深夜の張り詰めた空気の中でやけに大きく響いた。

「ただいま」

明かりをつけっぱなしにしている部屋に入る。

室内は静まりかえり、物音一つしない。

ソラは窓際にチョコンと座ったまま動かず、走り寄るっては来なかった。

子犬の様な姿を見たかったのだが、拍子抜けする。

帰って来るのが遅かったからといって、今までソラは文句の一つも言わなかった。

だからそれが当たり前だと思ってもいた。

「ソラ?」

俯いた顔が見えなかったので、寝ているのかと思い声をかけると微かにビクッと肩が揺れた。

寝ているわけではないのだろう。

駆け寄ってくる姿を待ちわびていただけに、そんなソラの態度にイラつきを覚えた。

「ソラ」

再びかけた声は、随分とキツイものだった。

靴を脱ぎ、動こうとしないソラに歩み寄る。

古いアパートの床がギシギシと妙に音を経てた。

「ソラ」

三度目の呼びかけに、ようやくソラの顔が上がった。

けれど、その瞳は今までのソラからは想像出来ないほど、酷く歪んでいた。

泣きそうな風にも、憎しみが篭った風にもシンホには見える。

「っ、、、、!」

シンホは、その視線を捉えると、無意識のうちに手が上がり、ソラの青白いまでに白い頬を、張っていた。



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「ソラ、ソラは何より可愛いね」

以前自分が言った言葉が、遠くで聞こえた気がした。



パンッと小気味いい音に少し遅れて、手の平に痛みが襲う。

ソラの赤く腫れた頬と、自分の手の平を交互に見て、シンホは今しがたの行動をやっと実感した。

自分が、ソラを打ったのだ。

「ごめん、そんなつもりじゃ、、、、」

慌ててソラを抱き寄せ、しっかりと抱きしめる。

そうだ、そんなつもりじゃなかった。

「ソラの事、好きですか?」

「当たり前じゃないか、、、本当に、ごめん」

ソラの声は震えていた。

けれど、それ以上にシンホの声も震えていた。

これは、違う。

自分じゃない。

そうだ、仕事で疲れていて予想外の事がしてしまっただけだ。

何度も、何度も、自分に言聞かせた。

「ごめんな、もうしないから」

ソラにではなく、自分に向けて言葉を放った。

けれど、先ほどとは裏腹にソラは明るい声で言い、短い腕でシンホの背中を優しく叩いた。

「いいです。ソラの事、好きなら、何しても良いです」

それはシンホの心を締め付けるだけだった。