サイレースに想いを込めて・前編+++



蛇口から流れる湯が、浴槽に溜まっていく。

あえて蛇口を少ししか捻らなかったので、そこに響く水音も小さな物だ。

「・・・あぁ、少し、混濁してきた・・・かな」

浴槽の中で、悠斗[ゆうと]は静かな水音にさえかき消されそうな声で呟いた。

浴槽の角に頭を預けるように身体を沈める。

大して広くもないマンションサイズの浴槽故に、日本人の成人男性の平均的身長である悠斗は浴槽の底に尻だけつき、膝を曲げると足は反対側の角に預けるようにしていた。

それは、日常的に取る悠斗の入浴スタイルだ。

けれど今は、「日常」とは大きくかけ離れていた。

一つに、まだ溜まりきらない、十五センチ程しか湯の溜まっていない浴槽に入っている事。

二つ目に、悠斗がジーンズとTシャツを着たままである事。

それだけでも随分と異常だ。

遊び半分ならばいざ知らず、二十七歳にもなる大の男が着衣のまま浴槽に浸かるなど。

だがそうさせた理由は三つ目にあり、重く垂れ込めた瞼が物語っている。

洗い場に転がる、銀色のシート。

細長いそれが一つと半分、それから落下した為に縁が割れたガラスのコップ。

中に残っていた水はぶちまけられたが、幸いに洗い場であった為何の支障もない。

もっともそれを片づける気は、悠斗には微塵もなかった。

「不思議・・・怖くは、ない・・・けど」

洗い場に転がるシートは、明らかに粒状の薬が入っていた物だ。

そして全て押し出され空となったそのシートには、「サイレース」と書かれている。

メジャーな、睡眠薬。

悠斗は湯を溜めながらの浴槽につかり、睡眠薬を飲んだ。

浴槽の縁にまだワンシート残っている。

洗い場に転がる十四錠を飲み終わった頃、薬を飲み続けるのも疲れると一息を置いた。

その時に、浴槽の縁に薬同様置いていたガラスのコップを割ってしまったのだ。

ここは風呂場。

衛生面に多少目を瞑れば、いくらでも水はある。

けれど、十四錠分の薬の効果は想像以上に強く、もはや身体を起こす気にもならなかった。

身体が重くて、何をする気も起きない。

蛇口から流れる湯の音だけが、音の全てのようだ。

「やっぱり、もっと飲むべきだったかな・・・」

今こうしている理由は、ただ一つ。

死のうと、思った。

否、死のうとしている。

もう、様々な面で疲れてしまった。

「瞼・・・重た」

何がきっかけだったか、明白には覚えていない。

元から不眠症で、十二時に布団に入っても朝方四時頃まで眠れない。

けれどサラリーマンである為、朝は七時に起きて出社しなければならない。

それが辛かった事に加え、あまりそりの合わない上司にいびられていた事と、公に出来ないパートナーが居る事などが重なり、いつしか悠斗はメンタルクリニックへ足を運んでいた。

初めはただ、友人でも同類でも会社の関係者でもない、何の繋がりも持たない相手に話を、愚痴を聞いて欲しかっただけだ。

今思い返せば、占いで人生相談をしても良かったかもしれない。

だが気が付いた時には、心を落ち着ける筈の薬に頼れば頼る程、妙な考えばかりが浮かんでは消えていた。

そして今日は、浮かんだまま、消えてはくれない。

「あ・・・そっか。携帯も、落としちゃったんだ・・・」

ふと目についた先で、愛用の携帯電話が湯船に沈んでいる。

薬を十四錠飲んだ後に、最後のメールを打った。

それがどのような内容であったかは、もはやおぼろげにしか思い出せない。

睡眠薬だけで死ねるなどとは思っていない。

それだけの数を集めるのも大変であるし、大方吐き気が勝り、嘔吐してただ苦しいだけで終わる。

だからこそ、悠斗は浴槽の中に居る。

少しずつ、けれど確実に溜まってゆく湯。

今この水量でも、身体を滑らせて起きさえしなければ窒息死だ。

静かに、眠る。

そしてしっかりと眠りに落ちた頃、身体の力も抜け、水の張った浴槽の中に滑るだろう。

既に意識は朦朧としている。

このままもう少し、しっかりと、苦しくても起きないか起きる気力もないまでに眠ってしまえば、浴槽に落ちていきたい。

不思議と、死は全くもって怖くない。

生きていたとしても、希望が何も見えないから、今ここで終止符を打つ事に躊躇いはないのだろう。

だがただ一つ、寂しい事があるとするならば、もう彼に会えない事だ。

最後に悠斗がメールを送った相手。

悠斗が心の底から愛した、ただ一人の相手。

同じ東京在住同士であったとしても、距離ではない事実として生きている世界が違う事は、以前より理解をしていた。

しているつもりだった。

だがもう、悠斗の中の糸が、知らずうちに張りつめていた糸が、プツンと切れてしまった。

残ったのは、疲労ばかりだ。

「あぁ、そろそろ限界だ・・・・義巳[よしみ]、愛して・・・」

浴槽の湯は、まだ半分も溜まっていない。

けれどもう、悠斗の意識が、途切れていく。

身体は制御が聞かず、ずるりと浴槽に落ちてゆく。

これで良い。

これで義巳もまた、次の人生に歩んでゆけるだろう。




後編
*目次*