サイレースに想いを込めて・後編+++



背が浴槽を滑り落ち、首も、顔も、湯の中へ落ちていった。

聞こえるのは、蛇口から流れる湯が浴槽に貯まった湯を打つ音だけ。

それもどんどんと遠くなってゆく――その時だ。

静かに水だけに包まれていた空間にバタバタと荒い音が乱入したかと思うと、何を考えるよりも早く、悠斗の身体はそこから抱き起こされた。

「悠斗。君は、何やっているんだ・・・これは、薬?服のままで・・・まさか、死のうとでも・・・っ」

「・・・ン?・・・、・・・義・・・巳?」

意識は、混濁状態。

瞼も、はっきりと開かない。

けれど、この腕だけは。

この腕に抱かれる感触だけは、間違えない。

「・・・夢?・・・か、幻?」

「違う、事実。現実だ。君が、あんなメールを寄越すから。仕事放り出してでも出てきたんだ。・・・それが、正解だったみたいだね」

「え・・・?でも・・・だって」

洗い場から浴槽に両手を突っ込んでいた義巳が、悠斗を浴槽にもたれ掛けさせるように座らせると、彼もまた座り直した。

けれど彼のその視線一つとっても、何かを警戒しているのは明らかだ。

片手を離し、洗い場に近い方へ悠斗を寄せる。

義巳の片手は悠斗から離れる事はなかった。

「あんな・・・メール?」

「覚えてないのか?」

「・・・ごめん」

「それは良い。それで、こうして間に合ったんだから」

それまで空いていた義巳のもう方腕が、悠斗の頭を後ろから抱きしめる。

優しく、そして力強い腕だった。

「『今までありがとう。幸せだった』」

「・・・え?」

「悠斗が送ってきたメールだ。その後携帯も通じない。ただの別れ話のメールかと思った。けれど君は、重大な話であればある程、電話で済ます事すら嫌う質だ。僕達の過ごした時間をなかった事にするのは、簡単な話でない筈だろ」

「義巳・・・」

「悠斗の、最後の、精一杯の、叫びだったんだね」

「・・・あ」

不意に、目尻が急激に熱くなった。

胸が痛い。

切なくて、苦しい。

「義巳・・・・」

多分、その言葉が欲しかったのかもしれない。

堪えきれない物が、熱い滴が、瞼から頬へとしたたり落ちた。

義巳は、日本有数のグループ企業の御曹司だ。

長男であり、知能も仕事面も長けている、両親の期待を一新に背負った将来有望な人材だという。

出会ったのは、三年前のハッテン場。

悠斗は元々ゲイであったが、義巳はノンケ、今となってはバイだ。

日常での気晴らしにと初めて、前々から興味はあったハッテン場に義巳が身元を隠し訪れた際に、互いに一目で惹かれ合った。

それからすぐに交際が始まり、その頃は幸せだった。

今まで平凡な人生を歩んできた悠斗には無縁の場所や物を教えてくれた。

育ちの良さが随所から感じられる彼は、容姿も体型も人並み以上で、いつでも笑顔だった。

何より、今までゲイだからと諦めていた本気の恋を、愛を、知った。

沢山の愛情を肌で感じられる程義巳は与えてくれたし、自分自身も出来る限りの全てを与え、返したいと思っていた。

けれど、どんなに愛し合ったところで結局は、大会社の御曹司と単なる平リーマン。

立場の差は、大き過ぎた。

「だめだよ、義巳・・・」

懸命に、声を振り絞る。

抱きしめられた腕は気持ち良い。

けれどだからこそ、此処に居てはいけない。

「義巳が、有名な華道の家元のお嬢様と結納したの、ニュースで見た・・・から」

自分が女性なら、そのような事があったとしても奪い返そうと、何が何でも結婚をして子供を産んで、周囲を納得させようと努力したかもしれない。

けれど悠斗にはそのどちらも、叶わない。

抱きしめられた腕をそっと解こうとする。

そして悠斗は、義巳を振り返った。

「僕は、義巳の幸せを・・・」

「馬鹿だ。悠斗はとんでもなく、馬鹿だ。僕の幸せ?悠斗がいなくなってしまえば、そんなもの一生感じられるものか」

「・・・ぁ」

「悠斗だけが、僕の幸せなんだ」

振り返った悠斗を、正面から抱き合うように義巳が抱きしめた。

今日一番、力強い腕だ。

「でも・・・」

彼の気持ちは嬉しい。

彼の言葉を信じて今まで耐えてきた。

けれど。

結納まで済ませたとニュースで見た。

彼からその件について一言も聞いていなかったが、悠斗は、所詮男は、愛人になれて精一杯なのだろう。

正妻と暮らし、近い将来子供を作る。

セックスをする。

子供は育ち、優しい彼は愛情を与えるだろう。

その時悠斗は、忙しい時間の間に義巳が会ってくれるのをただただ待つばかりの存在だ。

それを、今死のうとさえした自分が、耐えられるのか。

眉がどんどんと下がってゆく。

しかし義巳はその悠斗に笑みを返し、そして頬を撫でた。

「僕達が、結婚しよう」

「え、でも・・・形だけなんて・・・」

「違う、正式にだよ――アメリカへ行って、籍を入れよう。そこで堂々と、二人で暮らそう」

「・・・え?」

徐々に晴れて居た思考が、ぴたりと止まる。

考えた事もなかった。

何も希望など、ないとしか考えていなかった。

「一からはじめよう。貧乏になるかもしれないけど」

「義巳が・・・貧乏?」

「立場も地位も、何もかも捨てていくからね。そうなるかもしれないというだけだよ。それでも構わないという、覚悟だ」

「でも・・・僕、英語なんて」

「向こうで暮らせばすぐに覚えれる。それに」

言葉を切って義巳が笑う。

優しく力強い。

信じられる、今まで信じてきた、愛してやまない彼の笑みだ。

「死ぬ勇気があるなら何でも出来る。それに死は一度だけだ。やれるだけの事をやってそれでも駄目な時に、一緒に死のう。そう思えば、何も怖い事はないと思わないか?」

「・・・あ」

「愛してる、悠斗。結納なんて親が決めただけだ。抗えなかった僕も悪いが、一度だって彼女を愛した事なんてない。彼女だけじゃなく、悠斗意外の全てを」

「あ・・・あぁ・・・・義巳」

ぼんやりとおぼつかない身体で、けれど悠斗はふらつきながらも立ち上がったので、あわてて義巳も立ち上がった。

そうすると、義巳の方が目線が高くなる。

まだ浴槽は跨げず、ふらつく身体を懸命に堪えたが、悠斗は倒れ込むかのように義巳へ抱きついた。

「義巳、そんな事をしたら地位や仕事や、ご両親や親戚も無くしてしまうよ?」

「けれど、悠斗は失わない」

「折角、良い家に産まれて、困る事なんてなかったのに、不幸になるかもしれないよ?」

「ならないよ。苦労はするかもしれないね。けれど、悠斗が居る限り、不幸になんてならない。それは断言するよ」

義巳の腕が、悠斗の背を抱き返す。

もう、迷いはなくなった。

弱い心さえ、消えてなくなったようだ。

悠斗の頬を、大粒の涙が流れてゆく。

濡れた衣類が半端に乾き寒かったけれど、心はどこまでも暖かい。

「愛してる。義巳が居るなら、僕だってどこでも・・・生きていける」

「だろう?もう、死のうなんてしないでくれ。僕が・・・僕が何があっても悠斗を助けるから。守ると誓うから、もう僕の前から消えないでほしい」

「うん」

もう、張る意地もない。

十四錠もの睡眠薬から来る眠気さえ、冴えていくようだ。

素直に頷けたのは、薬のせいなどではない。

心が、溶けてゆく。

「愛してる、悠斗」

「うん・・・僕も」

「今此処で、愛を誓うよ」

悠斗を抱きしめたまま、義巳が浴槽を跨ぎ中へ入る。

握ったままだったのだろう、この部屋の合い鍵が浴槽に落ちると同時に、頭を支えられ唇が重なった。

「義巳」

死のうと思った。

死んでも良かった。

けれど心の大部分では、こうなる事を願っていたのかもしれない。

彼はもう、悠斗を離そうとはしないだろう。

何かがあれば、次はカミソリを持ち出せば良い。

眠気からではなく瞼を落とす。

心の中では甘く切なく、そしてどす黒い物で満たされていた。


【完結・続きません】

前編
*目次*