清水の波紋・編・10


三城は出張へ旅立って行った。

幸田は職員室の窓から方角も解らない空をぼんやりと見上げ、遠い地の恋人を思った。

この空の向こうに三城が、などと乙女チックな事を考えた訳ではないが、ただ自宅に帰っても一人かと寂しさは胸に宿る。

長年一人暮らしを経験して来たけれど、今となっては三城と二人の暮らしが当たり前になっているのだろう。

週末天ぷら屋で食事をした際、次週の半ばからニューヨークの本社へ出張になったと三城から聞かされ、そして二日前に彼は出発した。

いつ帰ってくるのか、一週間くらいだと言ってはいたが三城の出張の予定は変更になる場合が多い。

予定より短期で帰国する事もあるにはあるが極稀で、大抵の場合予定の超過だ。

まだ二日しか離れていないというのに早く会いたくて堪らない。

浅いため息を吐き出し、幸田は急いで帰宅する理由もなくのろのろと帰り支度をしていた。

二人暮らしに慣れた弊害は寂しさだけではなく、一人分の食事を作るのが億劫だという面でも現れている。

昨日とその前はそれでもなんとか炒めるだけの簡単な夕飯を作ったが、今日もまた、と考えると面倒で、余計に帰り支度をする手が止まりそうになるのだ。

レトルトかインスタントにしようか。

いっそ外食で済ますのも十分ありだ。

一人分を作るのを億劫に感じるのは、一人前という少量の調理故もあったが、それよりも自分しか食べないからという気持ちの方がより大きい。

いつもどんなに疲れてても旨そうに食べてくれる三城。

彼が喜んでくれるから毎晩手料理をしていたのであって、思えば以前一人で暮らしていた時もやはり大した物を作らなかったり弁当や外食が多かったなと思い出した。

今夜は外食にしてしまおうと決めれば、どこで何を食べようか今から食事に出かけるのは早いか、などと考え、不意に横から大石に声を掛けられた。

「幸田、今帰りか?」

「あ、はい。部活も今日はないので。大石先生は?」

座ったまま幸田が彼に視線を移すと、緩めたネクタイと上から数個外したボタンからお疲れの様子で、空席の隣りの席に腰を下ろしている。

「俺もだ。幸田、今日暇か?時間あったら飲みに行かないか?」

「今日、ですか?」

急な話だが、良くある事だ。

建前上独身の幸田は飲みの誘いを断り辛く、半分程度は参加し半分は理由をつけて断っている。

だが三城の居ない今日は断る理由もなく、一人きりの広い部屋に早々に帰る事を考えればむしろありがたい。

「なんだ?デートの約束か?」

「いえ、大丈夫です。行きます」

「そうか。良かった。あいつも喜ぶ」

「あいつ?」

誘って貰えて良かった、と笑みを零していた幸田は、けれど大石の何気ない呟きにふと疑問を感じた。

同じく良かった良かったと言う大石の口ぶりはさも他に誰か居るとでも言いたげである。

咄嗟に職員室を見渡したけれどこちらを伺っている職員も居らず、あいつとは誰だろうと考えていると、大石が否定的に首を横に振った。

「先生じゃない。あいつ、覚えてるか?大学時代俺と同期だった───日比谷」

「───え」

「え?」

覚えてるも何もない。

大仰に驚く幸田に驚いたのは大石の方であった。

大石は多くの友人・知人同様幸田の隠された性癖を知らない。

故に日比谷と幸田との本当の関係についても知らず、ただの先輩後輩だとしか思っていないだろう。

ましてや、つい先日再会したというのも、大石には伝えていない。

「あ、いえ、すみません。覚えてます。日比谷先輩も来るんですか」

「あぁ。っていうか、今日誘って来たのもあいつだ。普段はあんまり連絡取ってねぇんだけど、暇だったら幸田誘ってどうだって」

「そう、なんですか・・・」

大学時代、日比谷と大石は同期で幸田はその一つ下であった。

彼らを含めた数名で当事仲良くつるんでおり、幸田はその時同士だと──ゲイだと知った日比谷と急激に仲が深まって行ったのである。

元々好みのタイプではあったし、優しい人だった。

もっとも、誰にでも優しい人なのだと思っていたが、そうではなく幸田に好意を寄せていたからこそ優しくしてくれていたのだと後から日比谷に聞かされたのだが。

交際は周囲に必死に隠し、仲間ともそれまでと同じくつるんでいた。

だが、幸田の両親の死により日比谷からも、仲間からも疎遠になっていたのだ。

勉強とバイトと現実逃避ばかりで学友と過ごす時間は次第に減っていく。

そんな中、連絡をくれたり身辺の心配をしてくれたりとしたのこそ、今も幸田の夢の手助けをしてくれた大石である。

そう考えれば、与えられた影響も感謝の気持ちも、日比谷よりも大石の方がより大きく感じていると言えた。

「この間何かの用件で連絡した時にさ、幸田がうちの高校来るって話ししたんだよ。それ思い出したんだろうな。幸田は卒業以来か?」

「え・・・いえ、えっと、実は、先週末偶然会ったんです」

「偶然!?へぇ」

此処まで来れば隠すでもないかと伝えたが、再び驚きを見せる大石に苦笑が浮かぶ。

日比谷の真意は解らないが、彼には先週三城と居る所を見られている。

それどころか三城と日比谷は名刺交換までしていた。

三城という恋人が居ると解っている幸田に日比谷は、「彼の許しが出たら連絡をくれ」と言ったというのに。

そして、直接聞きはしなかったがその晩の三城の怒号から日比谷とは連絡を取らずにいようと思っていたというのに。

それが何故日比谷の方から接触を計って来たのだろう。

幸田の現在の連絡先を知らないが為に大石を通したようだが、それ故に一度承諾してしまった約束を断れなかった。

誘い主が誰かさえ解っていれば行かなかったのに、と思えど今更遅い。

幸田は、苦笑を自嘲に変え、諦め腹を括る事にした。

会うと言っても大石と三人。

三城に疾しい事は無い。

「俺も日比谷と会うのは久しぶりでさ。あいつ変わってたか?今は結構有名な企業でサラリーマンだっけ?」

「そう、みたいですね」

ハハハと乾いた笑みで言葉を濁す。

これならば一人きりの夕食の方がどんなに良かったか。

憂鬱な気分になりながらも、幸田は張り付いた笑みを大石に返したのだった。



  
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