清水の波紋・編・15



キッチンで包丁を握る幸田は、けれど調理が捗らないまま動かす手を休めた。

昨晩はあまり酔いもしないうちに日比谷と別れ、一日が経っている。

日比谷からのその後の「お誘い」は当然のように断固拒否をし、それを態度で示す意味もあり早々に帰宅を告げたのだが、早く帰宅した理由はそれ以上に、彼から教えられた三城の件が頭から離れなかったからだ。

三城がゲイの溜まり場となっているようなバーに居た。

にわかには信じられない。

しかもそれを告げたのが幸田に浮気の誘いを掛けた日比谷だとすれば尚更であったが、だがそんな幸田の気持ちを揺さぶったのは、日比谷が「三城をバーで見かけたのは一人でない」と言ったからだ。

ホテルで再会した時に日比谷の隣に居た彼。

三城をバーで見かけた時も彼と一緒で二人で見かけたらしく、その彼に確認の電話を掛けてやろうか、という日比谷の親切は断った。

なんでも距離があった為会話までは聞けなかったようだが、バーテンンダーの男と親しげに話す様子から三城が初来店とは到底思えない様子だったという。

その上、三城はそのバーテンから何かを受け取っていたらしい。

それが何かまでははっきり判らない。

だが、大きさや光を受ける色から判断し───鍵ではないかと日比谷は思えたようだ。

三城が、二丁目のバーで男から鍵を受け取っていた。

その衝撃はあまりに大きく、翌日である今日は一日気が気でなかった。

教師としての意地で授業はなんとか問題なくこなせたが、その他雑務ではミスを出してしまったし、ふと間が空けば三城を考えていた。

頭が良くて、要領も良い人だ。

その三城が自分に嘘を吐くなど、なんとも簡単に思える。

もしかすると出張だと言っているのも嘘なのではないか、あの鍵を使いバーテンダーの男の家に泊まっているのではないか。

まさか今も、などと考えてしまえば思考が止まらなかった。

悶々と三城を疑っている自分が嫌だ。

彼を信じきれない自分がなんとも情けなかったが、一度芽生えた疑惑は容易に胸から去ってはくれない。

数週間ぶりの三城の帰国を昨日程喜べないまま、幸田はそれでも長旅から疲れて帰ってくる彼の為にと手料理を作っていた。

だがやはりその事が気にかかり、手を動かしても気がつけば止まってしまい、と繰り返しやたらと時間が掛かってしまったのだが。

ようやく完成した、とIHヒーターを止めると、まるでタイミングを見計らっていたかのように玄関で施錠の音が聞こえた。

「っ・・」

胸の鼓動が、大きく一つ鳴る。

この家に帰ってくるのは、自分を除いてあと一人しかいないのだ。

三城でしかない帰宅に緊張が走る。

だが、キッチンで突っ立ってもいる事も出来ず、幸田はそろそろとした足取りで廊下へ続く仕切り扉を開け玄関へ顔を出した。

「ただいま、恭一。会いたかった」

「お、おかえりなさい」

大きなスーツケースを土間に置き、三城はブリーフケースだけを手に玄関へ上がった。

見慣れた、大好きな彼の笑顔だ。

だが、疲れているだろうにそれを見せない様子はいつもと同じである筈だというのに、ふと、本当に海外へ行っていたのだろうかと疑惑を感じてしまう。

そんな事を考えてしまえば、幸田はぎこちのない笑みを浮かべ咄嗟に三城から視線を外した。

「食事、出来てるよ。久しぶりの日本だし、やっぱり和食の方が良いかなと思ったんだけど───」

「何があった?」

「え?」

「何を俺に隠している」

三城に背を向けキッチンへ戻ろうとした瞬間、三城は幸田の腕を掴んだ。

彼の声が硬い。

恐々と振り返れば、そこに居た三城は今しがたの微笑が嘘のように、唇は下げられ瞳は鋭く尖らされていた。

彼が怒っているのは一見して判る。

「・・・。何も。別に、何も隠してなんて」

「嘘を吐くな。俺が恭一の様子の変化に気がつかない訳がないだろう。言え」

三城の指が、薄い部屋着越に幸田の腕に食い込む。

暴力など絶対に振るわない人だ。

だが、三城は怒気の高ぶりから、まるで幸田を逃がさないと言わんばかりに腕を強く掴まれる事は極稀にだがあった。

徐々に腕に響く微弱な痛み。

胸に抱えたモノと合い混じり、幸田は眉を下げると見上げていた三城から視線を外した。

「別に・・・」

「恭一。俺を怒らせるな」

もう怒っているだろう、という反論など出来る筈もない。

ため息を飲み込んだ幸田は、諦め混じりにうつむいたまま呟いた。

「昨日、日比谷先輩と会って、それで」

「何だと?あいつと会ったのか?あいつは恭一の連絡先を知らない様子だと安心していたが、まさか恭一から連絡を取ったのか?」

「・・うん。あ、でも昨日が初めてじゃなくて・・・」

その前に大石に誘われ不可抗力のように会ったのだ。

連絡先を教えたのも、直接聞かれれば断れなかったというのもある。

そして、今伝えたいのは日比谷についてではなく、と思っても、幸田がそれを伝えるよりも早く三城に腕を引かれた。

「えっ・・あ・・・待って、春海さん。それで・・・」

「言い訳ならベッドで聞く」

「嫌。そういうのは嫌」

「何故だ?甘い睦言交じりであれば、許しも得やすいだろ?」

寝室のすぐ前で立ち止まった三城は、10cm高い視線で見下ろし、口元だけで笑って見せた。

その口調がどんなに冗談じみていても、今の彼からは楽しい雰囲気などまるで伝わって来ない。

「それとも?まさか、あいつと寝て、だから俺と寝るのは疚しいのか?」

「そっ・・そんな訳あるわけない!」

「だったら、何故俺を拒む?」

「それは・・・」

険悪な雰囲気をSEXで流してしまうのは簡単だ。

些細なつまらない諍いであれば、事態をうやむやにしてしまうのも、双方が折れ合うのも、閨の中では容易に出来る。

この間日比谷と再会した夜もそうだった。

嫌だ嫌だと言いながらも結局は三城に押し流されて、甘い言葉で懸命に日比谷との仲をなんでもないと言った。

だが、今夜は到底そんな気分にはなれない。

燻っていた不満が、三城の傲慢な言葉に我慢が効かなくなる。

何故自分だけこんなにも責められているのか。

日比谷とは何でも無く、ただ酒を飲んだだけだ。

それで言うならば、自分だけではない筈ではないのか。

「春海さんだって」

「なんだと?」

「春海さんだって、二丁目でお酒飲んでるくせに」

三城の腕を振り払う。

あっさりと離れた三城の腕から逃れるよう、幸田は掴まれていた腕を反対の腕で抱き一歩後退った。

半ば叫ぶように言った幸田は、睨むというよりも伺うといった方が良いだろう眼差し三城を見つめるしか出来ず、そしてその彼は感情の読めない面持ちをしていたのだった。



  
*目次*