清水の波紋・編・19



サービスだとグラスを持って来た男は、いかにもバーテンダーだとばかりの装いであった。

白いシャツに黒いベストと蝶ネクタイ。

黒髪は後ろへ撫で付けシルバーフレームの眼鏡がストイックに感じられる。

「えっ・・・どうして・・・」

「幸田、この人がこの間の・・・え?」

目を白黒させる幸田に、ニヤついた笑みを浮かべた日比谷は勢い勇んだが、けれど全てを口にする前に異変に気がついたのだろう。

幸田を見つめ、三城を見つめる。

そんな日比谷に構う事無く、幸田はハッとすると慌てて立ち上がり、テーブルの横で微笑を称えるばかりの男へ頭を下げた。

「ご無沙汰してます───秋人さん」

そこに居たのは、誰あろう三城の実兄・三城秋人である。

何故、今まで気づかなかったのか、彼はこの二丁目に店を持っているのだと知っていた筈ではないか。

そんな兄が居て、男には興味がないと言っている三城が居るのだ。

二丁目で三城を見かけたと教えられ何故秋人絡みであると直ぐに考え付かなかったのか、情けなさと恥ずかしさが一気に襲う。

結局のところ、日比谷は嘘を言っていなかったが、三城も不正を働いていた訳ではない。

ただ幸田が一人大騒ぎをしただけの結果となった。

「恭一くん、お久しぶり。座って。それノンアルコールで僕のお勧めだから、遠慮なく飲んでね」

「あ、はい。ありがとうございます」

ぎこちない様子の幸田に秋人は悠然と笑んでみせる。

どこまで三城から聞いたのか、挙動不審な幸田にも、理解が追いついていない様子の日比谷にも驚く事無く、彼はただスマートに立っているだけであった。

「・・・、幸田も知っている人なのか?」

「あ、はい。だって・・・」

秋人に促され席に着く。

誤解を解かなければならないがどう説明すれば良いものか。

日比谷と秋人を呼び出した張本人・三城をチラリと見やれば、彼は秋人が持って来たドリンクのグラスを空にしテーブルに戻し口を開いた。

「俺の兄だ」

「・・・え」

「残念だったな、日比谷」

ニヤリ口元を歪めた三城は、神経を逆撫ですると解っていてやっているのだろう見下しきった口調で言う。

テーブルの下で足を組み替え新しい煙草を手に、彼は思い出したように持ち秋人を見上げた。

「今日は飲めませんけど、約束ですからアレ、入れといてください」

「ありがとうございます。入れたんだから、飲みに来いよ」

まるで追い払うように片手を振ると、いかにも営業スマイルだとばかりの笑みを浮かべた秋人は会釈を残し席を離れていった。

二人の間にどのような約束があったのかは知れないが、三城は今日この時間に秋人を呼ぶために何か働きかけたのだろうと察せられる。

秋人の背中を見送っていた幸田は、再び三人になり三城は手にしていた煙草に火をつけ紫煙を大きく吐き出したのを横目に見た。

「お前が見たっていうのは、単に俺が母さんに頼まれてあの人から鍵を貰いに来ていただけだ」

「え、お義母さんから?」

反応したのは日比谷ではなく幸田である。

思いもしなかった名をだされ、驚きから三城の面持ちを覗き込んだ。

「あぁ。今またアメリカに居るとかで、帰国したら秋人兄さんの家に用があるから俺の泊まっているホテルまで取りに行くから持って来いと連絡があってな。面倒ではあるが、あの人に逆らうと余計に面倒だ」

ため息交じりに言うと、三城は眉間に皺を増やした。

「なんなら、母さんにも確認を取るか?もう帰国している筈だし、この時間なら構わないだろう」

「いえ、良いです・・」

秋人が現れた時点でもう十分で、これ以上妙な恥を広げたくはない。

慌てて首を振る幸田に三城は納得してくれたのかそれ以上はそこには触れず、幸田から日比谷へと視線を移すと彼をじっとりと見つめた。

「悪いが、俺はゲイではない。恭一以外の男には興味がないし、用がなければ兄さんの店であっても此処へ来たりはしない。あぁ、それから、兄さんはバーテンではなくオーナーだ。お前はさぞこの店に入り浸っているようだがな。お前が恋人以外の男と遊んでいようが俺の知ったところではないが、もう二度と恭一に手を出すな」

「っ・・・」

「最初はだた恭一を狙っているのかと思ったが、だが先ほど会話をしてそうではないようだな。お前は、俺への当てつけがしたいだけなのだろ?自分のビジネスでの無能さをプライベートで、しかも下品な手を使って埋めようなどと考えたのか?思考が貧相で、しかも失敗している辺り滑稽だ」

冷たく、そして淀みなく、氷を思わせる口調で話していた三城は、最後にクッと喉で笑った。

口元だけ笑みの形に歪められては居るが決して楽しそうではない彼と、自分ならばあまり話していたくはないなと幸田は感じた。

反論の余地もないのか、何か言ったとしてもまた言い返されるだけだと理解したか。

日比谷もまたただ三城を睨み付けるだけであった。

「お前は、俺がお前だから蔑ろにしていると思っているのかも知れないが、俺は一切不正も贔屓もしていない。あの企画書も、良いと思えばそれを持って来たのが例えお前でもビジネスをしていた。だが、お前の持って来た物はそれに至らない程度の物だった、それだけの事だ───もう用もないな。恭一、帰るぞ」

「え、あ、うん」

「お前っ・・」

三城は言い終わると煙草を灰皿へ押し付け、有無を言わさぬ態度で幸田の腕を掴み立ち上がった。

そんな事をされなくてもきちんとついて帰るのに。

半ば無理やり立ち上がらされた幸田が日比谷を振り返ると、彼は座ったまま唸るように言った。

「お前への、当てつけだった事は認めてやる。だが、これから幸田を狙うかどうかはお前に関係のない事だ。本命の余裕があるならどんな男が来ても構わないんじゃないのか?それとも自信がないのか?そうだな、お前がそんなふてぶてしい態度してたら幸田だって、本心ではお前を───」

「一つ、教えてやろう。恭一はもう、『幸田』ではない」

「・・・え?」

「日本は世間体を重視する国だからな。学校では『幸田』で勤めているが、戸籍上に『幸田恭一』は存在しない」

「は?何言って・・・」

「『三城恭一』、それが今の恭一の名だ」

「え・・・まさか、そんな」

条件反射なのか、ハッとした様子で日比谷は幸田を見やった。

日比谷もゲイであるのだからその意味を瞬時に理解出来たのだろう。

だが、日比谷のように遊び暮らしている部類のゲイからすれば、そんな事───養子縁組などジョークのネタで使われる程度だ。

真偽を見極めるような視線を寄こしていた日比谷に、幸田は照れたような表情を浮かべた。

そうだ。

自分はもう、「幸田恭一」ではない。

学校でこそ「幸田」で働いているので未だにその名の方がしっくり来るのは事実だが、免許書もパスポートも、健康保険所も、レンタルビデオ店の会員カードも全て、「三城恭一」と記されている。

無意識のうちに左の指先が跳ねる様に動いてしまう。

そこに嵌られたプラチナのリング。

これは飾りでもダミーでもただのアクセサリーでもなく、本心より永遠の愛を誓い合った、二人の証だ。

「先輩、春海さんは確かにいっつもこんな感じですけど、でも僕は嫌じゃないんです。嫌になるなんて考えられませんし、どんな人にお誘いされてもお受けしません」

「幸田・・・」

「でも、数年ぶりに先輩に会えて嬉しかったのは本当です。先輩も、指輪の恋人さんと仲良くしてくださいね」

「恭一、余計な事を言うな。こいつには無理だ。行くぞ」

「あっ・・待って・・・春海さん、待って・・・先輩、さよならっ」

三城が強引に腕を引く。

こうなってしまえば、三城が幸田の意見を聞くことはないと知っている。

一応、円満か否かはさておき全ての誤解が解けたようなので此処に居る理由はないのも事実。

挨拶らしい挨拶も交わせないまま幸田は日比谷に会釈だけを残すと、振り返りもしなければ秋人に声を掛ける様子もない三城に連れられ、幸田は店を後にしたのだった。


  
*目次*