蒼の真意   ちょい読み [本文冒頭より]



味噌汁の香りが鼻腔を擽り、花岡静也【はなおか・しずや】は静かな目覚めへ導かれた。

「ん……」

低血圧が故にボンヤリする頭で、けれど意思の強い内面が現れているように昨日の疲れも見せずベッドの上に身を起こす。

昨晩は仕事の関係で夜中まで酒を飲んでおり、このような朝はきっといつも以上に味噌汁が身に染みるだろう。

今朝の味噌汁の具は何だろう、などと考えながら身支度をするために花岡はベッドから降りた。

花岡は現在29歳。

長身で細身、けれど忙しい中時間を見つけてはジムに通っている為引き締まった体躯は決して柔に感じられない。

顔を洗い、スーツのジャケットとネクタイ以外を身につける。

清潔に揃えられた髪を横分けにセットし出しっぱなしにしていた水道を止めると、水音を聞きつけたのかパウダールームの扉が外側から開けられた。

「おはようございます、静也さん。朝ご飯出来てるよ」

「おはようございます理緒さん。えぇ匂いしてるなぁ、思てたんです」

壁に掛けられている洗い立てのタオルで手を拭う。

花岡は迎えに現れたエプロン姿の青年の腰を自然な仕草で抱き、己よりも一回りも二回りも小さな身体の額に唇を落とした。

彼は花岡の唯一の身内、そして───何物にも代え難い最愛の恋人である。

旧姓・片瀬理緒【かたせ・りお】、現在は花岡理緒【はなおか・りお】となった彼と花岡は、血縁の繋がらない叔父と甥という関係であった。

とはいえ、二人が出会ったのはつい数ヶ月前。

幼い頃に生き別れた理緒の母・麻理亜を探し始めた花岡が彼女の死を知り、数年の年月を掛け養護施設に居た理緒を見つけ出したのだ。

あの時の事は今も昨日の事のように思い出せる。

探している最中はただ、血縁がなくとも優しく支えてくれた麻理亜の忘れ形見だとしか考えていなかったというのに。

一目理緒を見た瞬間から何かが動き出し、数日としないうちに恋いに落ちていた。


悲しい運命から麻薬中毒にさせられてしまったイギリス人と日本人のハーフであった母親から生まれた理緒は、緩くウェーブの掛かった金に近い茶髪に光の加減で青く見える紺の瞳、全体的に日本人離れをした容姿をしており、実年齢の17歳よりも僅かに幼く見える事もあり、曰く『美少女のような』青年だ。

更に、先天的に身体が弱い事も要因してか理緒はどこか儚げな雰囲気すら持ち合わせている。

しかし内面は必ずしも儚げなだけではなく、きちんと病院に通えるようになり随分と体調のコントロールが出来るようになった理緒は、日々の炊事洗濯や家の事をこなしてくれており、『儚げ』よりも『健気』という言葉がピタリと当てはまった。

以前は寝に帰るだけ、生活感がなくモデルルームのようなとすら表せる、使っていないが故に綺麗であった部屋は今では家庭的な暖かさが溢れている。

そんな理緒を花岡はとても愛し、大切にしていた。

一方で『冷酷』と呼ばれる花岡の心からの笑みを向けられるのは理緒をおいて他に居ない。

「今日はほうれん草のおひたしを作ってみたんです。静也さん、前に美味しいって言ってくれたから」

「あれは美味しかったですね。でも、理緒さんが作ってくれるもんやったら何でも美味しいんですけどね」

「静也さん、褒め過ぎだよ…」

理緒が照れくさそうに笑う。

広いリビングルームに隣接するカウンターキッチンの横に設けられたダイニングに向かうと、二人掛けにしては広々としたテーブルには今は純和風の朝食メニューが並べられていた。

ほうれん草のおひたしに卵焼き、鮭の切り身にそして白米と味噌汁。

朝は簡単なもので良い、と花岡は以前理緒に言っていたのだが、徐々に品数の多くなってゆき今ではまるで旅館の朝食のような豪華なそれへとなっている。

『作り過ぎちゃってごめんなさい。多かったら残してね』

苦笑を浮かべながら理緒にそのような事を言われれば、残さず食べたいと思ってしまうのは惚れた男の性か。

高い天井からつるされた照明の光を受けキラキラと輝く白米、横に添えられた味海苔。そして目の前には最愛の理緒。この時を幸せと呼ばずなんと呼ぼう。

理緒が湯呑みに茶を入れるのを待ち、花岡は丁寧に両手を合わせた。

「いただきます」

「いただきます」

家庭の味を知らなかった理緒と花岡にとってこの味噌汁こそが『家庭の味』そのものだ。

穏やかな朝。

こうして、花岡静也の一日は始まるのだった。