三城×幸田・それぞれの春・編・17



玄関のドアノブを捻ると、施錠はされていなかった。

という事は既に三城は帰っているという事だ。

幸田は取り出しかけたカードキーをポケットに戻し、頬を綻ばせながら扉を開いた。

ガチャリ──

広々とした玄関には三城の革靴だけが少し乱れて置かれていた。

「ただいま帰りました。」

ここで声を張り上げてもリビングや書斎まで聞こえる事はないのだが、そうと知っても幸田は習慣的に口にしていた。

靴を脱ぎ、律儀に自分の靴と三城の靴の向きを変えると早足でリビングに向かう。

この家への帰宅時の挨拶が「お邪魔します」から「ただいま」に変わったのはいつの事だろうか。

それは極自然な変化故に今ではもうはっきりとは思い出せはしない。

廊下とリビングの仕切り戸を開けると、広いリビングで一際存在感を放つソファーに三城が座っているのが知れた。

だがその姿は新聞に隠れて見えない。

ガラス製のローテーブルに愛用のミニノートが置かれているものの仕事をしている感じはなく、隣にはウイスキーの入ったグラスもあった。

「三城さん、ただいま。」

幸田は弾む声でもう一度言うと、コートを脱ぐ事も鞄を置く事もせずに三城へと歩み寄る。

その足取りの軽さは、主人の帰宅を喜ぶ犬を思わせた。

ようやく幸田に気づいたらしい三城は、バサリと音を立てて新聞を閉じると顔を上げた。

「おかえり、恭一。」

ふわりと微笑まれた面持ちはいつも以上に優しさに満ちているように思える。

昨日はゆっくりとした時間を全く取れなかったので、余計にそう感じるのかもしれないい。

「夕食は取ったか?」

「いえ、まだ・・・」

この時間ならば食べて帰ってくる事も多いのだが、一刻も早く帰宅する為に食事時間も削って仕事をしていたのだ。

今まで気にならなかった空腹が、三城の顔を見た安心感で思い出さされる。

「そうだろうと思った。弁当で悪いが買ってきている。食べるか?」

三城もまた幸田のそういった性格を見越していたのか、サッと立ち上がると返事も聞かずにキッチンへと歩いていった。

キッチン台の上で袋をガサガサと漁っている姿など、今では珍しくなかったが付き合い始めた頃では考えられないだろう。

そんな三城の行動や言動の一つ一つが幸田を笑顔に変えていく。

「ありがとうございます。頂きます。三城さんは?」

「俺もまだだ。」

なんでもない口調で三城は言ったが、ラフな部屋着を着ている事やウイスキーグラスの減り具合から、三城は随分前に帰宅していた事が伺える。

それなのに食事をせずに待っていてくれたのだろうか。

幸田の胸に暖かい物が芽生えた。

満たされていくこれに名前を付けるならば、それは幸せというものなのだろうか。

「三城さん、ありがとうございます。」

少し離れた場所にある三城の背中が笑った気がした。

「さっさと着替えて来い。」

「はい、すぐ着替えて来ますね。待っててくださいね。」

「そこまで慌てなくていい。」

クスクスと笑う三城の声を聞きながら、幸田は踵を返すと小走りに寝室へと向かったのだった。



 
*目次*