三城×幸田・それぞれの春・編・24



幸田は予備校を出た所で立ち止まると、冬の外気を胸一杯に吸い込み、白く息を曇らせながら大きく吐き出した。

いつの間にか張り詰めていた気が、一気に抜けていく。

今日一日を思い返すと、いつになく感情の起伏の激しい日だった。

とは言っても、幸田のメンタル面が壊れてしまった訳ではない。

様々な事が起こった、というだけだ。

高校から採用の電話を貰った時はこれでもかと幸福だったはずなのに。

三城はまた出張になり、そして謂れの無い不信感も感じてしまっている。

その上予備校での事を足せば、到底今が幸せで一杯などと言えはしない。

予備校長に提出した退職届けは、予想通り粘りに粘られ、同僚、特に数学教師達からは冷たい目で見られる中、なんとか受け取ってはもらえた。

だが嫌味は一つ二つでは済まされず、職員室で過ごさなければならない時間は正に針の筵[むしろ]だった。

時期が悪かった、と一言で片付けるしかないのだが、幸田も同僚や上司が嫌いで退職を願っていた訳ではないので心苦しくなるばかりだ。

もしも逆の立場なら・・・普段人を悪く言わない幸田でも愚痴の一つは零してしまうかも知れない。

そんな中、三枝だけは幸田を祝福してくれたのだ。

「よかったじゃないですか。夢だったって前言ってましたよね。」

いつか飲んだ時に口を滑らせた話をしているのだろう、三枝はニッと笑い皆に聞こえるほどの声で言うと幸田の背中をバシッと叩いた。

三枝の言葉を聞いていた同僚達の態度に変化が有ったかというとそうでもないのだが、それでもありがたかった。

明日になればきっと大丈夫。

皆も普通に接してくれる。

幸田は心の中で呟くと、自分を奮い立たせるように一つ頷いた。

とはいえ、傾いだ気持ちが上向きはしない。

「・・・帰りたく、ないな。」

ため息と共に、小さな呟きが漏れる。

今から帰るのが誰も居ない自宅だと思うから余計にだろうか。

三城の居る暖かい家に帰りたい。

幸田の作った食事を二人で食べて、少しだけアルコールも飲んで。

一緒のベッドで眠ったなら、翌日には晴れやかな気持ちで朝を迎えれるだろうに。

その三城は、きっともう日本には居ないのだ。

空を見上げても、都会の夜空に星は瞬いていないし、飛行機のランプが見えればいいな、と思ったけれどそう都合よく飛んではなかった。

立ち尽くしていた幸田を、風が殴りつける。

「うぅっ寒っ」

慌ててコートの襟元を掻き合わせてたが、2月の寒さを防げはしない。

帰りたくないと言っても他に行く場所など思いつかず、結局帰らなくてはならないのだから帰路を急ごう。

だが、ようやく歩き出した足を止めるかのように、ポケットの中で携帯電話が震えた。

──ピリリリリ

誘われるがまま幸田は立ち止まり、かじかむ手で携帯を取り出して見ると、画面に写しだされた発信者名は「大石智明」とあった。

「─ピっもしもし?先輩?」

『俺だ、大石だ。仕事、終わったのか?』

「はい、今さっき。」

『だと思って電話したんだ。校長から聞いたぞ。採用だって?おめでとう。』

大石のやたらと明るい声が、幸田の低迷していた気持ちを優しく撫ぜてゆく。

疲れしか表れていなかった頬が、柔らかく緩んだ。

「ありがとうございます。先輩のお陰で、本当に僕は・・・」

『違うだろ。お前の人柄だ。それに、これで俺の株もあがったことだしな。』

大石は冗談交じりに言うと豪快な声で笑ってみせた。

実際はどう考えても大石の口利きのお陰で、面接を行った担当教員など、幸田の履歴書を見るより前から笑顔を絶やさず好意的だった。

『それより、今日は予定、あるよな?』

「いえ、それが・・・」

『無いのか?』

「えぇ、まぁ」

幸田は曖昧な返事を返すのがやっとだった。

有るか無いかで言えば、全く無い。

だが、無い自分を寂しく思っている為、その事実を口にしたくはなかった。

『本当か!?だったら、俺と飲まないか?予定がないなら是非俺に祝わせてくれよ。』

大石は驚きの声を上げ、早口でまくし立てた。

まるで幸田に予定がないとは思わなかったと言わんばかりだ。

「いいんですか?」

『当たり前じゃないか。なぁ、お前こそいいだろ?』

幸田は慌てて腕を捲り時計を確認した。

時刻は午後9時を過ぎたばかり。

今日はたまたま、最終の授業よりも一つ前の時間で幸田の受け持ちが終わった為、いつもよりは早いのだ。

普段ならそんな時でも最後まで職員室で仕事をしているのだが、同僚達の視線が痛く、どうしてもそこに居続けは出来なかった。

「それじゃぁ、祝って、もらおう、かな?」

幸田は遠慮勝ちに言い、はにかんだ笑みを浮かべた。

ちょうど、と言っては悪いが三城も居ない。

気兼ねする相手も無く、一人家路に着くのが寂しいと思っていた所だった為断る理由など一つも無かった。

『おう!任せとけ!じゃぁ今からどっか出るから・・・』

幸田は時計を袖の下にしまい、安心したように目を細めると待ち合わせ場所に向かう為駅へと急いだのだった。



 
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