蒼穹を往く奏楽・19




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老婆を跨ぎ、男は侮蔑の眼差しを向けた。

「・・・ランヒス、お前・・・」

「食わせてやっている恩も忘れ王を愚弄するなど、一介の易者の分際で」

吐き捨てるように言った男───ランヒスの足元で老婆は背中から鮮血を流し倒れ、奴の手には鮮やかな赤を纏い鈍く光る剣が握られている。

その瞬間は見ていなくとも、ランヒスが老婆を切り付けた事は明確だ。

今まで、ランヒスは単に冷酷な男であると考えていた。

だがそれ以上に、人の心を無くしたように残虐でもあるのだと知り、強い嫌悪感を抱く。

老婆には何の義理も有りはしない。

だが、言葉一つが気に入らなかったからだと老婆を切り付けたランヒスは、やはり人の上に立つべき人間ではないと改めて感じた。

この国は、むしろ王室は、亡びるべきだ。

背を壁に預けながらイスハークは立ち上がる。

薄暗い地下牢でイスハークとランヒスを隔てる物は目の前にある鉄の格子、そしてそれ以上に目に見えない何かがある気がした。

この柵があろうがなかろうが、今のイスハークにはランヒスを攻撃するつもりはない。

残念ながらこのような男であっても一国の国王で、奴を殺せば箔がつく以上に面倒な事となる。

つい先ごろ大嵐にあったばかりで、食料や武器や船自体も損傷を負っている現状で敵に回すには厄介過ぎる相手だ。

クレイアーク軍に追われれば真っ当に戦う事も出来ないやもしれず、それを覚悟するのは船長としての責任が制止を掛け、睨みつけるしか出来ないイスハークは奥歯を噛んだ。

「何をしに来た。この女を殺す為にわざわざ地下牢まで来たのか?」

「まさか。それほどまでに暇ではない。私はお前の顔を見に来たのだ」

「・・・何?」

「此処へ閉じ込められた事により心改め、私に従うようになったかと思ってな」

人の気持ちが容易く変わるものか。

地下牢に閉じ込められた程度で改心しているなら、とうの昔に海賊など止めている。

はやりランヒスはイスハークを軽く見ているのだろう。

それは実子だからだとか、この国を捨てた男だからなのかと憶測をしていたが、検討外れだったようだと思い直した。

今足元に倒れている老婆への扱いも、自信過剰なまでのイスハークへの扱いも。

まるでこの世界で己が一番偉いとでも思っているかのようだ。

それ自体が悪いとは言わない。

王とは、人の上に立つ存在とは、そうでならないといけない時も往々にしてある。

だがそれだけでは反発心を抱く者も多く現れるというもので、その一端がイスハークであるとランヒスは気がつくべきだ。

なにせ、イスハークは反社会派の海賊、それも船長である。

ランヒスやクレイアーク国以外であっても、王国も軍隊もイスハークは大嫌いだ。

「ふざけるな・・・」

「そうか。ならば当面このまま此処に居ろ。だがあまりにお前が強情であるなら、お前が快く頷きたくなるようにするまでだ」

「何を・・・・」

嫌味にニヤリと唇を歪め、ランヒスは踵を返す。

快く頷きたくなるように、それは暗に拓深やバリアーカクイーン号への攻撃を仄めかしているのだろう。

喉の奥でランヒスが笑い、その耳障りな音は地下牢の扉が再び閉ざされた事により遮られた。

「クソッ・・・」

拓深は守る。

その為なら下手なプライドなど捨ててしまえる。

だが、そうしたところで本当にランヒスが拓深に手を出さないという保証はなく、たとえ出さなかったとしても、イスハークが拓深と必ず再会出来るとは限らない。

今晩一晩待てば、事態はこちらに風向きが変わる。

そうと強く思いながらも、その『一晩』を無事に過ごせるのか不安で仕方がない。

「クソジジィ・・・」

緊張に張りつめていた気を僅かに緩め、口から溢れ出る悪態を吐き出す。

背中で隠し持っていたナイフを握る腕も今は堂々と身体の横に垂らされ、そのまま石畳へと腰を下ろした。

今ここに居るのはイスハークと、そしてランヒスに切り付けられた老婆だけだ。

ピクリとも動かないので彼女はもう死んだのだろうか。

例え生きていたとしても、牢の中に居るイスハークにはどうしてやる事も出来はしない。

もっとも、たとえ牢がなかったとしても『助けてやる術はない』、という意味では同じだ。

ぼんやりと老婆を眺める。

今は死体と二人きりという状況にも何も感じないが、さすがに一晩夜を明かすのは気持ちのよいものではない。

ランヒスは此処に来るまで護衛を付けていた筈だ。

ならばこの老婆を連れ帰ってくれれば良かったのに───などと考えていた時だ。

微かに、それが動いた気がした。

「・・・生きて、んのか?」

「・・・っ・・・ぅ」

「おい、生きてんのか!?」

一度は唇の中で呟いた言葉を、二度目は大声で叫ぶ。

とっさに床を蹴ったイスハークは、策へと駆け寄り膝をついていた。

微かだった揺らめきが、徐々にはっきりとしたそれになる。

イスハークの眼下にある背中からは尚も鮮血を流しながら、老婆はゆっくりと重そうに顔をイスハークへと向けたのだった。