蒼穹を往く奏楽・28




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老婆の遺体と二人っきりであった地下牢は、王・ランヒスが去った後誰一人訪れる者はいなかった。

腹は減り、喉は乾いた。

このような状態に人を追い込んでおきながら、よく頼み事をしようと考えているものだ。

やはりランヒスには負の感情しか浮かばない。

そのような事を考えながらも黙々と牢の鉄格子に掛けられている南京錠に向かっていたイスハークは、ナイフと細い針状の鉄、それから持ち前の勘と経験を頼りにようやくそれを開ける事が出来ていた。

「・・・手間掛けさせやがって・・・」

重い鉄製の南京錠が、石畳の上にゴトリと落ちる。

その音は牢内に響きわたったが、石壁の向こうにまで聞こえている様子はない。

柵さえ開いてしまえばこちらのものだ。

イスハークはナイフをベルトに挟み、ベルト通しに下げていた手のひらよりも随分と小さい巾着の口を開けた。

「近くまで来ているか」

中から取り出したコイン状のタリスを手のひらに、イスハークはクッと喉の奥で笑った。

エメラルドグリーン色のそのタリスは装飾も彩色もされてはおらず、ただ平らな面に矢印が浮かび上がっているだけだ。

青色のその矢印は、今は真夏の空の色をしている。

「よし、行くか」

イスハークはナイフを握り直し、タリスを空いている手で握りしめた。

この城には様々な抜け道や隠し通路が存在する。

そしてその全てを、王族は物心ついた頃に覚えさせられるのだ。

それは、居ない者のような扱いを受けていたイスハークも同じくであり、兵士や大臣よりも詳しくイスハークはこの城の構造だけならば知り尽くしている。

その為、城を出る為の選択しも、いくつも思いつけた。

王子として認識をしているのかいないのか、中途半端な扱いを続けてきた結果がこれだとランヒスに対し嘲笑が上がる。

とはいえ、イスハークが選ばなくてはならない出口はただ一つ。

───ガノンが通るだろう道だけだ。

握りしめている、コイン状のタリス。

あれは常に、一つの石から出来たもう一つのタリス、いわば兄弟のタリスを指すように出来ているのである。

2つあるうちの一つをイスハークが持つそれは、もう一つをガノンが有していた。

そして、タリスに浮かび上がる矢印の色の濃さが、タリス同士の距離が近まっていると教えている。

牢の中で見た時よりも矢印は色濃くなっており、ガノンが確実に近づいているようだ。

ならば、一刻も早くガノンと合流出来る道を選びたい。

カットラスを奪われた今、ナイフ数本で一体どこまで戦えるというのか。

たとえ脱出する法を知っていたとしても、兵に囲まれてしまえば牢獄に逆戻りだ。

加えて、仮に脱出が出来たとしても、迎えに来たガノンと入れ違いになっていれば更なる面倒が増えるばかりだろう。

外から物音が聞こえないのを確認し、イスハークは牢獄部屋の扉を薄く開ける。

廊下は薄明りで、タリスだろうランプが所々に置かれているだけだ。

歩くには十分な明かりを頼りに目で確認をしても、見える限りには人が居ないと知れた。

大きく複雑な造りの南京錠を掛けていれば脱獄される恐れは無いとでも考えたのだろう。

甘く見てくれたのは脱出する機会を与えてくれたと感謝するが、自尊心と言う意味では釈然としない物があるというのが本心だ。

「・・・こっちだな」

廊下を左右確認し、タリスに浮かび上がった矢印が示した方へ走り出した。

手にはナイフを持ち、最大限神経を尖らせ、足音は出来るだけ静かに。

陸上ではこちらからは絶対に仕掛けない、というのがイスハークなりの海賊理念で、それだけに城の中を走り回るなど滅多にある事ではなく、これではまるで盗賊だと苦笑が浮かんだ。

「・・・っ」

そうして暫くを行った時、前方を見据え走っていたイスハークは遠くから人の声を聞いた。

「・・・・兵、か」

二人以上の人の会話だ。

そう思ったと同時に、イスハークは数歩先の十字路の左側の影へ飛び込んだ。

人が近づいてくるのは、どうやら正面からだ。

ならば、進行方向の死角となるこの壁の影で息を潜めていれば、人らがこちらへ曲がってさえ来ないなら十分やりに過ごせる。

耳を澄ませ人が通るのを待つ。

歩く音に金属音が混ざっているので、来るのは兵士だろう。

やはり声は二人分だ。

それが解ると、イスハークはふと、ここで兵士を倒し剣を奪いたいと脳裏を過った。

兵士二人ならば、ナイフだけでも勝機は存分にある。

この先、数本のナイフだけで進むよりも剣を持っていた方が断然に有利だ。

だが、そうしてしまえばより早くにイスハークの脱走がばれるやも知れない。

「・・・・」

剣は、諦めた方が賢明だ。

それよりも安全を優先して早くガノンと合流してしまう方良い、イスハークはそう結論付けた。

「あーぁ。夜勤開けは辛ぇなぁ」

「いいじゃねぇか、お前は。迎えてくれる美人の奥さんがいるだろ」

「ばか、あいつはぐーすか寝て待ってるよ」

石畳の床の上、足音が近づく。

一歩また一歩と足音と話し声が大きくなり、影に身を寄せるイスハークの緊張が高まる。

「・・・、・・・っ」

「寝てたって美人は美人だろ。羨ましいなぇ」

無駄話をしながら、兵士が十字路の手前まで差し掛かった。

息を殺し、殺気すらも圧し留め、ただ手にしたナイフだけは油断なく握る。

「そういや、お前今度さ・・・───」

兵士が、イスハークの前へと差し掛かった。

微かな物音も立ててはいけないと思えばこそ、身体全体に妙な緊張も走る。

───そして、通路を跨ぎ、兵士らは廊下の奥へと進んで行った。

「・・・・、ハァ」

まだ無駄話を続ける兵士らは、笑いあいながらまるでイスハークに気が付いた様子がない。

恐ろしく長い数分間。

否、数秒間だったのかも知れない。

早くガノンと合流しなくては。

もうこのような場面はそう何度も出くわしたくなどない。

腹の底から安堵の息を吐き出したイスハークは、再び立ち上がると足音を立てないようにしながらも大股で走って行ったのだった。