蒼穹を往く奏楽・3




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拓深の祈りが通じたのかただの偶然か、暫くしイスハークは船長室へ戻ったが、荒れ狂う波と豪雨が収まったのはそれから随分としてからであった。

隠れていた太陽は海の向こうから頭だけを出し、一日の始まりを知らせる。

風は穏やかで、海鳥が高い声で鳴きながら飛んで行った。

火よりもタリスの明かりを利用しているランプが殆どであった事も幸いし、船内が暗闇に包まれる事も火災が発生する事はなかったが、船の下層部の多くが浸水してしまったようだ。

海路も予定よりも随分と外れてしまったらしく、嵐が去ってからイスハークは忙しげにしている。

だが拓深ももう船長室にじっとしてはおれず、制止するイスハークを説得し水浸しとなった船内の清掃を手伝いたいと浸水した下層部へ来ていた。

「ジーノ、これどうする?」

「なんだそれ?ゴミか?」

「本、みたい。大切な物なら捨てれないよね?」

「わかんねぇもんはその辺纏めて置いとけ。後で船長か副船長に聞けよ」

「・・・わかった」

とはいえ、『その辺』が『どの辺』なのかが分からない。

床は引ききらない海水で足首まで浸かっているので本らしき物など置けはしないし、樽や木箱などの上には既に様々な物が避難させられているので置けそうにもない。

どうしたものかと見渡しても、皆が皆足下の水を外へ出すのに忙しく拓深を見向きもしてくれなかった。

そもそもイスハークの物・恋人という扱いの拓深がここに居る自体、あまり有難く思われてはいないようだ。

それでも自称・親友だというジーノだけは拓深の意向を汲んで仕事を与えてはくれたが、それもただそうさせていれば大人しくしているとでも思ったのだろう。

「・・・どうしよ」

水の滴る本を持ち、拓深は邪魔にならない端に突っ立つ。

とはいえ、そこも『今は』邪魔でないだけで、いつまでも立っていられる訳でもない。

船員らに比べ腕力も体力もなく、本に書かれた字すらも読めないのであれば、やはり役に立つには『何もしない』が一番なのかもしれない。

情けないが仕方がなく、とりあえずジーノの言うようにイスハークか副船長・ガノンにこの本の有無を聞き、それ以降は船内が落ち着くまでじっとしている方が良いだろう。

拓深は一旦甲板へ出ると、上層にある船長室へ向かった。

「イスハーク、居るかな・・・ぁ」

何をしているのか詳しくは知らないが、忙しそうにしているのは知っている。

今も此処に居る確証はないと思いながらも閉まりきっていなかった扉のドアノブに手を掛けた時、中から聞こえた声に、拓深は動きを奪われてしまった。

「───に上陸するだと?ふざけるな!」

「しかし、このまま航海を続けるわけにはいきません」

「他に港か島か・・・、何でも良い、他に何かないのか?」

「・・・船長もご存じと思われますが、この辺りは岸壁が続いております。もしくは、人里離れた砂浜。ここを過ぎれば早くても丸三日以上は上陸出来る場所はありません」

「くっ・・・」

怒気が含まれたイスハークと、一見冷静に感じられるガノン。

しかしそのどちらも動揺が隠せない様子であると、姿は見えなくともその声だけで感じられた。

元から誰でも出入りが出来る場所でない事もあり今船長室には二人しかいないようで、イスハークはともかくガノンの動揺した場面など初めてだ。

それほどまでに、この予定外の海路は望まざるものだったのだろう。

「ご決断を」

「・・・わかった。ただし、俺は船から降りんし、船を止せるのは一日だけだ。物資の補給と最低限の船の修復をしだい次の港を目指す。大がかりなものは全てそれ以降だ。分かったな」

「仰せのままに」

「っ・・・ぁ」

ガノンが言葉を終わらせたのを知り、拓深は慌ててドアノブから手を引いた。

悪い事をしていた訳ではなかったが、立ち聞きをしていたのは十分に『悪い事』に含まれるかもしれない。

この場から立ち去るか、それとも今来たとばかりのすまし顔を装うべきか。

しかし拓深がそれ以上どうする事も出来ないうちに、扉は内側から開かれた。

「・・・拓深さん。・・・、申し訳ございません、お待たせしてしまいましたでしょうか?」

「あ、あの、いえ。僕が、その、今来たとこで・・・」

「そうですか。お気遣いありがとうございます。船長は中にいらっしゃいます。では、私は失礼します」

到底海賊などとは思えない丁寧な立ち振る舞いと言葉遣いで一礼をし、ガノンは多くを語らず上層から降りていった。

彼はきっと、拓深が立ち聞いていた事を察しただろう。

そしてそれを後ほどイスハークに伝えるかもしれない。

それでも、少なくとも今は必要以上の言葉を残さないのだ。

嘘と暴力と法の介入のない薄暗い世界で育った拓深は、どことなくガノンの内面と外面が違うであろうと思えてならなかった。

いつも穏やかな笑みを浮かべている海賊船の副船長。

それは決して本心ではないのではないか。

冷酷冷淡な船長だと恐れられているイスハークよりも、拓深にはガノンの方が何倍も恐ろしく感じられる時がある。

「・・・あ、まいっか。イスハークで」

とはいえ己が知らないでいる方が良い事も多くあるものだ。

余計な事を知ってしまい痛い目に合わされた回数など数えたくもないと、拓深は一度だけガノンを振り返ると大して気にもとめず船長室へと入っていったのだった。