蒼穹を往く奏楽・31




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頬に、水滴が落ちた。

その水滴が頬だけでなく腕にも髪にも落ちたと知った次の瞬間には、それは雨、そして豪雨へと名を変えた。

「あ、雨だー」

「雨雲なんて無かったぞっ!」

「雨など気にするな!奴らを捉えよ!」

どどこかしこから聞こえてくる兵士らの怒号は、けれど確実に先ほどまでとは違っている。

突然の雨と、戦闘の混乱の中歌い出した拓深に動揺が隠せないのだろう。

雨の中、剣を振るう手に迷いが生じている。

だがそれは兵士達だけだ。

「拓深!」

集中力の掛かれた兵士らを剣で薙ぎ払い、イスハークが駆け寄った。

喧騒もガノンらや兵士らの姿も拓深には遠くに感じられたが、その中でも彼だけは鮮明で。

剣を持たない手を伸ばすイスハークの腕が目前まで迫った時、拓深は我に返るとなりふり構わず彼の腕の中へ飛び込んだ。

「イスハーク!!」

指先が、イスハークに触れる。

手のひらで彼の衣服を掴み、腕が彼の首に絡みつく。

羨ましいほど体格差のある彼に全身で抱きつけば、イスハークはあっさりと拓深を宙で抱き留めてくれた。

彼の腕の中が、これ程までに安心出来るなんて。

これまでも知っていた筈だけれど、今程強く実感した事はない。

「イスハーク・・・イスハークッ」

「・・・拓深。まさか・・・何故、拓深が此処に居る」

「会いたくて。どうしても、イスハークに会いたかったんだ」

「拓深・・・」

いつも、イスハークとは一緒に居た。

限られた船上に居たから、たとえ隣に姿が無くても不安になどならなかった。

たとえ港へ上陸した時に一時的に離れていても、気が付いた時には彼は戻って来た。

だからこそだ。

兵士に連れて行かれいつ戻るとも知れないイスハークをただ黙って待つなど出来はしなくて。

待っていてもイスハークは帰っては来ないのではないか。

どこか遠くへ行ってしまうのではないかとすら思え、そう考えれば考える程、居ても立ってもいられなかったのだ。

「もし、もう会えなかったらって思ったら、じっとしてられなくて・・・それで・・・」

「そうか。すまない、心配をさせてしまった。それに、危険にも晒してしまった」

「イスハーク・・・」

「こんな物を、拓深は握ったのは初めてではないのか?」

「あ・・・うん」

イスハークの視線が拓深の手元に向かう。

『こんな物』が拓深が握りしめているダガーを指していると知れると、拓深は小さく頷いた。

戦った事など無かったし、人を傷つけた事もなかった。

初めての経験は様々な恐怖を与えられたが、後悔などしてはいない。

むしろ、もっと早くにこうしているべきだったとすら思ってしまった程だ。

「怖かっただろ。拓深がこんな事をする必要などなかったんだ」

「・・・でも、僕は。ただ足手まといな『船長の愛人』で居るだけは嫌なんだ」

イスハークのように成れるなど思っていない。

ガノンのようにも、ジーノのようにも成れる気などしない。

それでも、SEXをする以外にも少しぐらい誰かの役に立ちたいのだと、初めて思った。

イスハークにしがみ付いたまま、胸の内を伝える。

するとイスハークは、一拍の間を置き───拓深の身体を持ち上げた。

「っ・・・え?」

「その件については後から話し合う方が良さそうだ。だが今は、とりあえず逃げるぞ!」

これまで地につま先が付くか付かないかという恰好だったというのに、片手でイスハークの肩に担がれた。

彼の背にしがみ付くようにそうされれば、視界の先には呆然と二人を見つめる兵士が見える。

今、この現状をどうすれば良いのか解らない。

せめてもだと拓深は、握ったままのダガーでイスハークを傷つけないようにとだけ気を付けた。

「イスハーク、何?」

「話は後だ。ガノン!ジーノ!走れ!」

「イエッサ」

「イエッサ!!」

イスハークが力の限り叫び、拓深を抱いたまま走り出す。

その時には既に、ガノンもジーノも森の入り口で兵士と応戦しながら逃げる準備をしていた。

雨でぬかるんだ足元と霞んだ視界に戦闘は激しさを削がれているようだ。

拓深が歌う事を止めても、雨は降っている。

それどころか晴れ渡った空には不釣り合いに雷を打ち鳴らすそれは、『荒れ狂う』という例えが相応しいまでとなっていた。

拓深はセイレーンの歌声で嵐を操れる。

何がどこまで出来るのか明確には解っていないが、初めの時は嵐を止める事が出来、二度目の時は嵐を呼べたのだから、現在同時にどちらも行えるとしても不思議ではない。

彼女・セイレーンは、拓深に味方をしてくれているのだろうか。

だが、この嵐は確実に、兵士だけではなく拓深達をも襲っていた。

早くしなければ、雨に呑まれるのはこちらも同等だ。

「イスハーク、僕も走るよ」

「お前はここに居ていろ」

「でも・・・」

断言的に言ったイスハークは、拓深の言葉になど耳を貸す素振りも見せず先陣をきって森の奥へと走って行った。

木々の葉に遮られ中庭に居た時よりも雨はましだが、それは兵士らも同じくで追いつかれるのは時間の問題だ。

ここで拓深が自分で走っても、真っ先に捕まってしまうのは拓深だと言い切れる。

やはり足手まといにしかならないが大人しく従う方が良いようだ。

イスハークの後方、後から追ってきているガノンとジーノ更に向こうの兵士らを眺めながら拓深はじっとしていた。

ガノン達は泥や鮮血で汚れてはいるが大きな怪我を負っている様子はない。

それだけは安心だ。

「・・・っ、ジーノ、後ろ!」

「あ?・・・っくそっ・・・と」

極間近に迫っていた兵士がジーノへと槍を向ける。

だが拓深が叫んだ事で、ジーノは攻撃を避けると逆に小型のナイフを投げ兵士を攻撃した。

「拓深、助かった!」

「良かった!」

「拓深、後ろしっかり見とけよ」

顔の見えないイスハークが、ニヤリと笑った気がした。

足手まといにしかならない。

まだ剣もナイフも上手く使えない。

それでも、出来る事はある。

拓深はイスハークの肩の上で、目を擦ると迫りくる兵士を睨みつけたのだった。