蒼穹を往く奏楽・35




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空は、何事もないように晴れ渡っている。

青く澄んだそこは、その遥か下界で慌てふためく人間を嘲笑っているかのようにすら思えた。

「・・・クッ」

「ハァ・・・ッ」

ジーノを先頭に拓深を担いだイスハークが森を走り抜けると、程なくして木々に覆われていない広い場所へ出る。

そこには兵士らが居たのだろう。

けれど、はっきりとその姿を確認する事は出来ない。

「・・・・あれは・・・・奴らか・・・?」

「前が・・・見えない・・・くそ」

「っ・・・」

もう遮る物が無くなった空からは容赦のない大粒の雨が襲い、まるで桶をひっくり返したかのような状態では目を開けるのも容易ではない。

耳に届くのは雨音なのか唸り声なのかも解らない耳障りな雑音と、そしてこの大雨の中でも歌い続けている拓深の声音。

しかし、それでも兵士らが確実に混乱をしているだろう事はどことなく解った。

空は晴れ小雨がパラついていただけの状態から突然豪雨となったのだ。

イスハークらが兵士の姿を確認出来ないのと同等に、否、それ以上に兵士らはイスハーク達を見つけられないだろう。

意図的に雨を降らせ自ら森から豪雨の中に飛び出したというだけで、イスハークらの優勢は大きい。

夢と悪夢を同時に見ている錯覚にすら陥る中、イスハークはぬかるみ泥沼と化した地面を一歩一歩確実に走り続けた。

今自分が何処に居るのかははっきりとは解らない。

けれど、闇雲に走っている訳でもない。

数メートル前方に、剣かナイフかの切っ先が太陽の光を受けたような、けれどそれよりも強い銀色の光が点滅している。

それは常よりバリアーカ・クイーン号の船員が使っている合図のタリスで、先を走るジーノの居場所を示していた。

海賊である以上、どんなに強勢を張っていても自然の猛威には勝てず、天候は大いに生死に関わるものだ。

悪天候に対しては様々なシチュエーションの対策はとっている。

それも、ただのうのうと陸地で仮想訓練をしているだけの兵士とは違う、実践向けのものだ。

その何倍か先にも今は小さく見える同じ光があり、あれは船からの合図だろう。

目も開けていたくない雨の中、それでも懸命にその光だけを追いかけた。

「拓深、もう少しだ・・・頑張ってくれ」

もしも今ここで歌が止み、雨が上がれば、確実に形勢は逆転しイスハーク達に勝機はない。

せめて船の目前まで走りきらなくては。

船にさえ乗ってしまえばなんとかなる。

なにせ、海賊は海の上でこそ本領を発揮するものだと相場が決まっているからだ。

後少しだ。

もうその先に、船がある。

船まで数メートルと迫ったところで、雨音に声をかき消されながらも合図のタリスをかざしながらジーノが繰り返し叫んだ。

「タラップを降ろせー。ギリギリまでだー。タラップ降ろせー!」

直ぐ後方に居るイスハークですら、幻聴に感じられる程遠い声だ。

それが頭上高い甲板に居る船員に届くとは思えない。

しかし、眼下に迫ったタリスの光には気が付いたのだろう。

鈍い音を立てながら、タラップが降ろされていると霞む視界でも確認が出来た。

「・・・・っ」

「よし!」

だが、大声で叫びながらタリスを光らせていたのだ。

流石に兵士らにも、イスハーク達の居場所に気がつかれた。

「イスハーク様・・・っ」

「俺は、問題はない」

「拓深様と、急いでください」

「あぁ」

雨音をかき分け、ガノンの声と剣がぶつかり合う音が聞こえる。

ここでやられる訳にはいかない。

「返してやる」

「・・・っグ」

イスハークは手にしていた倒した兵士から奪った剣を鋭く投げつけた。

そこに何が見えていた訳ではない。

特別攻撃を与えるつもりでもなかった。

ただそのような物を持っていれば、飛ぶのに邪魔なだけだ。

「拓深、行くぞ・・・っ」

近くで銀色の点滅と、ようやくジーノの姿が見えた。

だがもう、足並みを揃える余裕はない。

イスハークは拓深を担ぎ直す。

そして、───全力で走り込むと半ば勘で飛び上がった。

「っ・・・」

この先にタラップが降りていなければ海に落ちるか船にぶつかるか。

どちらにしても拓深を担いでいる現状では無事でいられるとは思えない。

「・・・・う」

「・・・・ぁ」

「・・・っ・・・はぁ・・・・」

ドンッと、身体の側面に強い痛みを感じる。

それと同時に、反対の側面に緩やかな重みも感じた。

見上げれば空。

そして、ぼんやりとした面持の拓深が己を覗きこんでいる。

「・・・拓深」

「あれ・・・?イスハーク」

「船長!」

「船長・・・」

頭上からは聞き覚えのある男たちの酒に焼けた声。

ようやく、バリアーカ・クイーン号に戻ってこられたのだ。

船に飛び込み倒れた甲板の上で、イスハークは長い一息を吐いた。

「・・・帰って、きたのか」

豪雨は止んだ。

今はただ、青い空に太陽が輝く。

「イスハーク、大丈夫?」

「あぁ。お前が居れば何も問題になどならない」

目の前の黒い髪と白い肌にイスハークは手を伸ばす。

頬は今は少しだけ冷たい。

けれど、泣きそうな眼差しで懸命に唇の端を釣り上げようとしている拓深は何よりも暖かくて。

周囲を囲む船員、その中にガノンとジーノの姿を見つけながらも、甲板に横たわったままのイスハークは拓深の頭を引き寄せると雨で冷たくなったその唇を奪ったのだった。