蒼穹を往く奏楽・36




−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

拓深の唇の感触は身体の中心を熱くさせる。

出来るならばこのまま拓深と船長室へ入り濃密な時間を過ごしたい心境ではあったのだが、生憎そうはいきそうになかった。

「船長・・・」

「イスハーク様、ご無事で」

「お前らも無事だったか。出航するぞ!」

拓深の腰を抱いたまま甲板に座り直したイスハークに、後から船に飛び込んだガノンとジーノが整わない呼吸で声を掛けた。

全身が先ほどの豪雨でびしょ濡れ、戦闘の際に負傷したのか服が何か所も切れ、ボロボロではあったがそれでも大怪我が見当たらないので上等だ。

ガノンらが乗り込んだと同時にタラップは閉められ、イスハークの叫び声を合図にバリアーカ・クイーン号は持てる限りの力で走り出した。

もっとも、『持てる限りの』と言ったところで俊敏に動ける船ではない。

イスハークらに逃げられたと憤怒したのか、兵士らはようやく飛び道具を持ち出した。

「船長、撃たれてます、撃たれてます!」

「打ち返せ!とにかく逃げるぞ」

「イエッサ」

仮にも王子であったイスハークを攻撃する辺り、兵士ら軍に指示を出しているのはランヒスだと考えて良い。

彼は、王にならない者───現・国王に逆らいこの国の助けとならない者など、殺した方がましだと考えているのだろう。

それが自身の息子であっても関係がない。

ランヒスとはそういう男だ。

そういう男の治める国など、滅んだ方が余程世界の為だ。

「拓深は中へ入っていろ」

「うん。・・・イスハーク、いいの?」

「なにがだ」

「もう、帰って来られなくなるよ。生まれた国なんでしょ?」

「構わない。今までも帰りたいなどと考えた事など一度もなかった」

此処には、何もない。

むしろ、好ましくない物が多すぎる。

幼い頃に暮らしていた頃も、そして今回の短い滞在中であっても、それは変わる事はなかった。

入り江に背を向け立ち上がったイスハークは水を精一杯吸い込んだシャツを絞る。

大量の水が甲板に落とされ弾ける音を立てていると、マストトップの船員の大声が聞こえた。

「船長!あれ見てください!あれって・・・・」

「なんだ?・・・・っ」

船員が船が離れたばかりの陸地を示し、イスハークは咄嗟に振り返った。

するとそれと同じタイミングで、それまで距離があり届かないにも関わらず乱射をされていた攻撃がピタリと止んだ。

兵士らを掻き分け、現れた馬に跨った一陣。

その中央の人物を目に、イスハークは思わず息を呑んだ。

「何しに来たと言うんだ・・・」

「イスハーク?あの人、知り合い?」

無駄に豪華な飾りを纏った馬に、同じく無駄な装飾だらけのランヒス。

その周りには金色の鎧を纏った王の犬を従えている。

今更ここまで何をしに来たというのか。

国を裏切る息子でも、死にざまくらいは見たいとでも思ったのかも知れない。

この距離ではランヒスの表情どころか姿形も明確には解らなかった。

「昔の、大昔の顔見知りだ。だがもう関係のない奴だ」

「そうなんだ」

「イスハークさま、ご覧ください!」

もう陸地を見ていたくもないと踵を返す。

するとイスハークに、それまで望遠鏡を覗いて居たガノンが手に持つそれをイスハークへと押し付けた。

見ろと言われてももうランヒスなど見たくはない。

しかし、渡されれば反射的に手が出てしまう。

受け取ってしまった拳四・五個分の長さの望遠鏡は、手の中でずっしりとした重みを教えた。

「・・・なんだ。俺はもう・・・」

「早く、お願いします」

「・・・」

焦りを感じさせるガノンに、イスハークは面倒に思いながらも大人しくそれを目に当てた。

丸いレンズをランヒスに向ける。

なんてことのない、嫌味な男の顔だ。

ランヒスなど見て何を思えというのか。

別れを惜しめと言いたいのかと苦言が口に吐きかけたイスハークは、けれど寸前でそれは呑み込まれた。

「これがなんだと・・・っ」

レンズの中に映った、憮然としたランヒスの手元。

そこにはイスハークの幼少の頃の肖像画が持たれていた。

それもただの肖像画ではない。

その人物が王の血筋であり王位継承権を持つ者を示す為に描かれる物だ。

本来ならば数年に一回、年齢を重ねる毎に描き返られるのだが、イスハークはあの一枚だけである。

その一枚すら残っていた事に驚いている。

「・・・っ・・・」

ランヒスの手元から視線が外せない。

あんな物を持ち出し何をしようと言うのか。

ランヒスはこちらに向け、まるで掲げるように肖像画を突き出していた。

イスハークが固唾を呑んだ、次の瞬間。

「っ・・・」

遠くで、発砲音が聞こえた。

そしてその銃弾は、肖像画を撃ちぬき破壊する。

ランヒスの手には金色に鈍く光る銃。

肖像画はところどころ赤く燃え、黒い煙を上げていた。

「あれは・・・」

「イスハーク?何の、音?」

肖像画に隠れて見えなかった後方から、奴は自身の手で発砲をしたのだろう。

数秒それを眺めた後、イスハークは望遠鏡から目を離すとガノンにそれを押し付けた。

「終わった音だ」

「・・・終わった?」

「あぁ。俺は今までもこれからも、ただの海賊だ」

ランヒスは王家継承権所有者を示す肖像画を撃ち抜いた。

今の今まで、イスハークが国を出てから長い年月有りつづけたそれを破壊する、それは何を意味しているのだろう。

陸地から離れても追って来ない軍隊。

それどころか背を向け撤退する兵士。

ランヒスは、王位継承権所有者としてのイスハークを殺したのではないかと思えた。

イスハークが王となる事はない。

その為、反逆者として追われる事もない。

これはただの憶測だ。

もしかすると逆に、あれを撃ちぬいた事で戦闘の始まりを意味しているのかもしれない。

けれど少なくとも今は、兵士らが追って来ない様子だという事だけは解った。

「大変だったね、イスハーク」

「まぁな。だがもう当分心配はいらないだろう。さっさと次の港を探す」

「うん。でも・・・」

「どうした?」

「僕は、ちょっとだけ、嬉しかったん」

「なんだと?」

柔らかい風が吹く。

陸地は既に遠く、そこに立つ人影すら見えはしない。

反対を向けばそこは見渡す限りの青。

海の青と空の青のコントラストが美しい。

その中で一際映える拓深の闇色の瞳が、イスハークを見上げて微かに唇を釣り上げた。

「イスハークの生まれたところが見れた。知らなかったイスハークの過去も知れた」

「・・・楽しいものではないだろ」

「楽しくはなかったけど、嬉しくは、あったよ。だってこんな事でもなかったら、イスハークは話してくれなかったでしょ?」

「・・・、・・・それも、そうだな」

拓深が、イスハークの腕を取る。

少しだけ日に焼け始めた拓深の腕が絡みついた。

己のつまらない過去などを知って嬉しかったという。

そうして笑みを見せる拓深が、堪らなく愛しくなった。

「そういえば、お預けを食らっていたのだったな」

「え?」

「存分に楽しませてやる」

「何・・・ぁ」

ニヤリと深い笑みを浮かべ、イスハークは拓深を軽々と両手で抱き上げた。

たった今まで忘れていたが、兵士らがバリアーカ・クイーン号に押し掛けたちょうどその時、イスハークは拓深と楽しむ直前だったのだ。

だがもう全てが終わり、気にする事はなくなった。

こんなにも欲情をさせたのは拓深だ。

その責任は、拓深自身で払ってもらう。

豪雨にやられた船の清掃や、次の港へ向け船員らが忙しなく働いている。

その中を悠々と、拓深を連れたイスハークは船長室へと入って行ったのだった。