蒼穹を往く歌声     01



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ネオン街のネオンも届かない路地裏。

ヤクザと不法入国の外国人と浮浪者がはびこるこの地が世界の全てだった。

太陽の光も法の介入も無く、平成の日本の片隅であるというのに日本の常識は何も通用しない。

それが良いのか悪いのかすら判断も出来ず、人身売買やドラッグが溢れている現状こそが日常だ。

ここで生まれ育ち、これから先も出て行く当てなど無かった───。



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錆だらけの文化住宅は、冬ともなれば隙間風が凄まじい。

窓も扉も締め切り鍵を掛けたところで冷気までは締め出す事が出来ず、安っぽい年代物の電気ストーブと毛布程度では震えを抑えられない。

昨晩酷使された身体に痛みを覚えつつ、けれどもはや馴れきったそれに篠原拓深【しのはら・たくみ】は眉間に皺を寄せただけで耐えた。

今はそんな事よりも、少しでも早く眠ってしまいたい。

眠ってしまえば寒さも痛みも空腹も、何もかもから逃げる事が出来るのだ。

ギリギリまでストーブに近づき、熱が直接当たる部分にだけ痛い程の熱を感じ、一方で冷たさから感覚を失っているつま先をすり合わせながら拓深は瞼を閉じた。

6畳一間のこの家に今は一人きりだが、唯一の家族である父親がいつ帰って来るか解らない。

彼が帰ってくれば十中八九起こされる。

その後再び眠れるか否かは彼の機嫌次第で、だがどちらにせよ、安堵していられるのは今だけだ。

「ん・・・」

胎児のように身体を丸め、少しでも温かい体勢を探る。

あまり昼の太陽とは縁遠い拓深の身体は、年齢よりも随分と小さかった。

栄養も運動も十分に取れていない事もあり、身長というよりも骨格そのものが発育不良で肉付きも悪い。

もっとも、正確な年齢については拓深本人も知らない。

数年前までは長い事14歳だと名乗らされており、その後一気に18歳と言わされるようになったが、それからも随分と季節は巡っているような気がする。

自称18歳、見た目はもう少し幼くて、けれど実年齢はもう少し上ではないか、というのがいつだったか長年の常連客に言われた推測だ。

うとうとと、極寒の中ようやく眠りにつけると思った矢先、建てつけの悪い玄関扉がガタガタと大きな音を立てられた。

「おい拓深、開けろー拓深、てめぇ居るんだろ」

「・・・・」

鍵の掛かった扉を急かすように打ち鳴らされる。

ガタン、ガタン、とそれが一回鳴る毎に扉の向こうの相手の機嫌が悪くなると知っており、拓深は出来るだけ早く立ち上がると寒さに震えながらより一層寒い玄関へ向かった。

鍵を持って行っては無かったのか。

それともまた失くしたのだろうか。

毛布を身体に巻きつけたままの拓深が、簡単にこじ開けられそうな安易な鍵を開錠すると、カチャンと鍵が落ちる音が鳴るやすぐさま開けられた扉から鉄拳が飛んできた。

「遅せぇんだよ、バカ。いっちょ前に鍵なんて掛けてんじゃねぇぞ。今度したらただじゃおかねぇからな」

拓深よりも縦にも横にも大柄な男は土足を気にした様子もなく、畳に崩れ落ちる細い身体に容赦なく拳や爪先を振り上げる。

数日前は鍵を掛けていなかったと罵り殴られたばかりなのに。

唯でさえ痛みを感じていた身体に更なる苦痛を感じたけれど、拓深は頭を庇うだけで何も言わなかった。

何を抗議したところで止めてくれる筈もないと長年の経験として身体に染み込んでいるし、それよりも口を開き舌を噛んでしう方が辛い。

擦り切れた畳の上で身体を丸めていると、拓深に暴行を加えた男は───父親・洋司【ようじ】は、息を切らしながらようやく手を止めた。

「ッ・・ケ・・けほっ」

「あークソッ。ただでさえむしゃくしゃしてンのによぉ。もう一回パチンコでも行ってくるか。拓深、金出せや。稼いで来たんだろっ」

身動き一つしない拓深の返答を待ちもせず、洋司は拓深の前髪を掴み身体を起こさせる。

毛布を剥ぎ取り身に纏う粗末な衣服のポケットを弄ろうとしたが、それよりも早く部屋の隅に寄せられているちゃぶ台の上に目当ての物を見つけるとその手を離した。

無理やり膝立ちのような格好をさせられていた所に急に手を離されたものだから、拓深は反動でそのまま畳の上へ倒れる。

もう何がどんな風に痛いかなど、表す言葉も思いつかない。

拓深が倒れた音が鈍く響いてもそちらを見もしない洋次は、ちゃぶ台から拾い上げた紙幣を下卑た表情で数えた。

「2・・3と、5・・・6・・7。3万7千か。湿気てんなぁ。一日店出てたんだろ、もっと客掴んで来いよ」

折皺のついたそれを纏めて畳むと、洋司はさも当然だとばかりに全てを己のポケットへ突っ込んだ。

きっとこのままパチンコにでも行くのだろう。

負ければ今と同じように機嫌悪く帰宅し、勝てば場末の安いスナックででも飲むのではないか。

くたびれた靴を外へ向け早々に立ち去ろうとする背中に、ようやく畳の上にペタンと座った拓深はだるい唇を開いた。

「・・・ごはん」

「あぁ?」

「ごはん、食べたい」

「この前金やっただろ。もう使ったのか?稼ぎわりぃくせに人並みに腹減りやがって」

洋司は今しがたポケットに突っ込んだばかりの紙幣を取り出し、その中から千円札を一枚拓深へと投げつけた。

軽い紙が頭に当たり、パラリと拓深の目の前に落ちる。

以前金を貰ったのなど何日前の事か。

その時も千円きりで、満腹になれない程度の食事を得るにも昨日で金が尽きてしまった。

稼いだばかりの金を使うという考えは、随分と前に捨てている。

この金を稼いだのが誰であるかは問題ではない。

洋司に渡す前の金に手を付ければ、それがバレた時どうなるか身を持って経験していた。

「今日もしっかり稼いで来いよ。これより少なかったら叩っき出すからな」

荒々しい口調を残し、今度こそ洋司は必要以上に大きな音で扉を閉め出て行った。

カンカンカン、と鉄の階段を下りる音が薄い壁越に聞こえる。

「・・・ハァ」

一人きりの静寂がようやく戻った。

時間にしてたった数分だったが、恐ろしく長い体感時間だ。

張り詰めていた緊張の糸が少しだけ緩まる。

けれど長年こうした強いストレスの元に居る拓深は、もはや開放的な心境など忘れ去っていた。

足元に落ちる千円札を拾いポケットに大切に入れると、拓深は電気ストーブの前で横たわる。

いつものありふれた日常。

平凡な日々の出来事。

高い太陽の日が赤く燃え上がり傾くまで、拓深は眠りに落ちたのだった。