蒼穹を往く歌声     03



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真上に来た太陽が、カーテンの無い窓から光を注ぎ込む。

ぐったりとした身体を畳の上に起こした拓深は、狭い部屋の隅で膝を抱えた。

あまりに全身が痛く、眠る事も出来ない。

そのうえ寒くて、空腹の苦痛が解らない程腹も減っている。

早朝帰宅した拓深は洋司が寝ている場所から出来るだけ離れて息を潜めていたが、彼が目覚めるなり蹴り飛ばされた。

やはり、ちゃぶ台の上に置いておいた昨晩の売り上げ金額が少なかったというのが彼の激昂の要因で、加えて元より機嫌も良くなかったのだろう。

これでもかと散々に殴り蹴り汚い言葉で罵られ、酒を買って来いという言いつけに素直に従い負傷した身体でタバコ屋とは名ばかりの小さな商店に酒を買いに行き、そうして洋司が泥酔の末眠ってしまってようやく安堵の息を吐く事ができた。

6畳しかない部屋の真ん中で大の字になる洋司を尻目に、拓深は壁際に小さく身を丸める。

電気ストーブは洋司の向こうにあり取りに行く勇気もなく、毛布は彼が枕にしているので触れる事も出来ない。

冷え切った部屋の中で、薄いシャツ一枚では寒すぎる。

これならば店の方がどれ程マシかと思うと、拓深はそろそろと立ち上がった。

この時間でも店は開いている。

普段の拓深ならば決まって店に出ていない時間帯ではあるが、どうせ歩合製だ、勤務時間を長くするならば出勤させてもらえるかもしれない。

「・・・・」

洋司に気づかれないよう、物音一つ立てずにと気を張り巡らせながら、拓深は玄関へ向かうと建てつけの悪い扉から外へ出た。

外はなんと解放的なのだろうか。

冷たい空気が凛と張り詰め身を刺すようであるが、何処か清清しい気分になった。

治安が至極悪く警察さえも立ち入らない一帯は、外灯すらまばらで漆黒の闇となる夜ともなれば危険極まりないのだが、今は周囲に誰も居らずそれも解放感に一役かっている。

拓深は眩しそうに空を見上げた。

こんな時間に外に出たのはいつ振りか、考えても思い出せない。

洋司に言い使った買出しでならあったかもしれないが、その時はとにかく急いているので空を見上げる余裕すらなくノーカウントだ。

ゆっくりと歩いても10分そこそこの店への道のりはあっという間で、拓深はすぐに見慣れ過ぎた店の下に居た。

店になど行かず何処か違う所へ行ってしまおうかとも少し脳裏を過ぎったが、だがその「他」という場所など思いつかない。

とにかく寒さから逃れたい一身で、たとえ客に殴られたとしてもそれよりも風の吹かない部屋を選んだ。

拓深が何年も在籍するその店はビルの2階にあり、外に付けられた階段から直接上がれる構造になっている。

一階もかつては何かの店舗であったようだが、万年シャッターが締め切られており拓深の知る限り開いているのを見た事が無い。

コンクリートむき出しの階段を上がる。

昼間でも薄暗く、ピンク色にポップな文字と卑猥な誘い文句が踊っていてもそれでもひっそりというより陰気な雰囲気すらする入り口扉をそっと引き開けた。

午前中から営業をしていたとしても、繁盛時期は夜から深夜に掛けてである。

この時間は客の入りも疎らで、働く子も夜は出勤出来ない数名が居るだけだといつか客の一人から聞いた事があった。

入って直ぐの受付カウンターにスタッフは居らず、拓深は静かに中へ進んだ。

カウンターの隣、バックヤードの部屋の扉は薄っすらと開いており中から光が漏れている。

ドアノブに手を掛けた拓深は一気に押し開けようとしたが、だがその瞬間、不意に耳に飛び込んできた言葉にその手は止まった。

「──拓深が・・・」

「・・・」

恰幅がよく人相の悪い、いかにも裏社会の住人だという風体のマネジャーの男が、確かに自分の名前を呼んだ。

その向かいに座るのが誰かまでは見えなかったし、声だけではスタッフの誰かだろうとしか判断できなかったが、だが解るのは二人がいかにもあざ笑った口ぶりだという事である。

扉を開けるのが躊躇われた拓深は、思わず息を潜め二人の会話に耳を立てていた。

「あいつ最近客減ってねぇか?」

「そうっすね。拓深の指名客も他の、特に新人の子に流れてます」

「まぁな、あいつ初々しさとか純粋さってもんに無縁だからな」

「仕方ないですね、拓深長いっすもん」

「熟女とかだったらまだ良いんだけどよ、あいつ若けぇくせに、身体だけガバガバなんだよな」

散々な言われっぷりだが、全て拓深自身も自覚している事だけに反論の余地も無い。

客が少なくその分収入が少なければ洋司に今日のような目に合わされるのだが、客をとったところで殴られるという意味ではようは同じで、拓深としてはどちらでも良いのだ。

人気の低迷を嘆かれていても拓深本人としては何とも感じなかったが、けれど続けられたマネージャーの言葉に、喉が詰まった感覚に陥り呼吸さえも忘れてしまった。

「じゃぁやっぱり他のオプション考えます?て言っても、拓深もうかなり過激な事もOKさせてるから他って・・・」

「腕、切っちまおうか」

「───っ」

何を言っているのだと、頭の中が真っ白になり、耳鳴りすら聞えてくる。

「それ良いっすね。そーいうの奇形っていうんですか?抵抗出来ないし、客の加虐心煽りますよね」

笑い声を上げながら話す彼らの言葉が何処まで本気であるか判断はつかなかったが、激しい恐怖を拓深に与えるには十分であった。

生きている人間の腕を切り落として死なずに済むのかなど解らない。

現実的なのか空想的なのか、馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばすという考えは微塵も浮かばず、彼らならばやりかねないのではないか、そして金になるのならば洋司も即座に賛成するだろうと思った瞬間、拓深は踵を返すと咄嗟に走り出していた。

こんなにも何かに必死になった記憶は無い。

コンクリートむき出しの階段を駆け下り、自宅とは反対へ足を向ける。

そこから先へ行った事は無く、何があるかは知らなかったが、それでも道があるなら何処かへ行けるのだと拓深はただひたすらに全力で走った。

今までの人生も様々な仕打ちを受けていた。

殴られるのは日常だし、意思とは関係なく身体に穴を開けられる。

マニアックらしいプレイや、羞恥にさらされたり激しい痛みを与えられるプレイまで、きっと特殊なのだろうと長年の男娼経験で理解出来る内容もいろいろとさせられ、それも年々度が増していると気づいていた。

それでも、抵抗しても余計に辛いのは自分なのだと、流されるままやってきたけれど、もう限界だ。

何もかもが嫌になった。

もっと早くこうするべきだったのかもしれない、と思いながら、拓深は初めて見る緑生い茂る場所に入っていった。

鉄のフェンスで囲われたそこは公園で、とはいえ遊具が置かれている幼児向けのそれではなく、取りえず補正された散歩道が一本通っているだけのものだ。

あとはボウボウと雑草が生い茂り、手入れのされていない木々が植えられているのみ。

他に見える副産物といえば、ブルーシートの家が鮮やかに軒を連ねるくらいである。

躓きそうになりながらも持てる力の全てで走っていると、公園の入り口から程なくして開けた場所が見えた。

木が植わっていなく空から光が降り注ぐそこは───池だ。

その池がどの程度の規模なのかは不明ながら、拓深にとっては初めて見る大きな水の塊だった。

自宅と店の往復以外の場所を知らない為、池も海も川も見た事がなく、知っている一番大きな水溜りは風呂だろう。

もう二度と店には行きたくない。

だからと言って、家に帰ったとしても洋司が黙っているとも思えない。

池の水面がキラキラと光っているのが見えた時、拓深は流れるような動作で池に飛び込んでいた。

「・・・───」

死にたいと考えたのか、と問われると正直拓深にも解らない。

ただ、こうするのが正しいような気がしたのである。

初めて全身を水だけに包まれた拓深は、当然泳げるはずも無く、それどころか足掻こうともせず、深い水底へ沈んでいった。

───もしも輪廻転生がるならば、次に生まれ変わる時はもう少し遠くまで行ってみたい。

重い瞼を持ち上げる。

水中から眺めた空は、とても蒼かった。