蒼穹を往く歌声     14



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
離れた場所から自分の名前が叫ばれたと拓深が反射的に顔を向けると、そこには船内から出て来たばかりのジーノが緑色の瓶を掲げこちらに向かっていた。

「おーい、拓深ー。酒貰って来たんだ、飲まねぇかぁ?ジャーキーもあるぞー」

拓深にとってジーノは、数多く居る船員の中である意味特別な存在だ。

海で浮かんでいた所を拾ってくれたというのもあるが、それよりもジーノただ一人が拓深に気安く話しかけてくれた。

ガノンを始めイスハークとジーノ以外の船員は、皆拓深に恭しくし、良く言えば「下にも置かぬ扱い」悪く言えば「腫れ物に触るよう」な印象を受けている。

元より雑に扱われる事しか知らない拓深だ。

そのようにされれば逆に萎縮してしまい、船員達と拓深の間には大きな壁が出来てしまっていたが、そんな中ジーノだけは例外で拓深に親しく話しかけて来ていた。

友人という存在を知らなかった拓深は戸惑いながらも、話しかけられれば答えるくらいはしている内に、姿を見ればイスハークとは違った部類で安心してしまう存在となっていたのだ。

「ほらよ。どこに居んのかと思ったぞ。さすがに船長室には見に行けねぇからな」

「イスハーク、今部屋に居ないから」

拓深の座る樽の足元に腰を据えたジーノは、酒瓶の一つを拓深に渡した。

緑色の瓶の中身はシェリー酒だ。

幼い頃から客や父親から酒を飲まされていた拓深は、見た目の華奢さに反してなかなかの酒豪、言い換えればザルである。

「ンな事外からじゃ解らねぇっての。それに、そーいう問題じゃねぇだろ。何にしたって俺みてぇな下っ端は船長室に近づくのもダメだんだよ」

「・・そうじゃ、なくて。イスハーク部屋に居ないから、他行くとこなかったんだ」

「船長居ねぇからって、居ねぇ時は出て行けとでも言われてんのか?」

「違うけど、でもあの部屋怖いから」

「はぁ?何が?」

「あそこ、高価な物が沢山あるって聞いたから。壊したり、無くしたりしたら、怖い」

「ふーん。そんなモンかね」

海賊行為の戦利品の中でも貴重な品や気に入った品はイスハークの部屋に納められているという。

その為、幹部以外は船長室への出入りを禁じられていた。

一見してそれだと解る物もあれば、見た目は地味な物もあるし、引き出しの中に収められている物もある。

イスハークは拓深にそれらを触っても良いと言っていたが、拓深は触る気にもならないし、もしも何かの折に破損や窃盗に見舞われては困ると、イスハークの居ない時は出来るだけ部屋を出ていた。

「船長はお前にも怖ぇのか?俺らにはすっげぇ怖ぇけどな」

「イスハークは、怖くない。だから、怖い」

「はぁ?意味解らねぇって」

拓深にとって、イスハークは恐怖の対象ではない。

口調はキツくとも、手を上げもしないし罵りもしない、それどころか優しく丁寧に感じる時も多々ある。

だからこそ、そんなイスハークの不興を買うかも知れないと考えれば恐ろしくなった。

「今は怖くないから、いつかイスハークが、怖くなったら嫌で怖いな、っていうか・・・」

「・・・なぁんとなく、解らねぇでもないけどな。俺もすっげぇ惚れた女には臆病になるからな・・・」

「ほれ、た?」

「あ?あぁ。例え話しだ。例え!おっ、それより、それタリスじゃねぇか。しかもデッケエな」

言葉を濁したジーノは、拓深の胸に下がる物を目にするとわざとらしいまでに大げさに驚いて見せた。

「これ、何になるの?」

「それ付けてたら身体中が暖かくなるんだ。その大きさなら、かなりの高級品だぞ」

「・・・へぇ」

付けていると暖かくなる高価なタリス。

ならばやはりこれは不用品などではないのだろう。

何故そんな物をイスハークは拓深に渡したのか理由は解らない、と思ったその時、ふと一場面が脳裏を過ぎ去った。

『ここ、暖かいから』

『暖かいから、だと?拓深はつくづく奇妙な事を言う』

「・・・」

初めてイスハークの部屋で目覚めた時だ。

イスハークは拓深が寒いのが苦手だと思いこれを渡してくれたのだろうか。

齧りかけていたジャーキーを隣の樽の上に置き、拓深は胸に下がる深紅のタリスを持ち上げた。

寒いのは嫌いだ。

身体が凍えると精神的にも参り、生命の危機すら感じてしまう。

特別「生きたい」と望んでいた訳ではないが、けれど死を感じるというのはあまり気持ちの良いものではない。

だが、それは以前までの話し。

ここは何処に居ても暖かいし、僅かな寒さを感じたとしても、それを回避するだけの権利を与えられている。

毛布を被るでも、暖かいスープを頂くでも、いくらでも拓深に選ぶ事が許されており凍える心配など不要だというのに。

「・・・お礼、しなきゃ」

手の中のタリスがほんのりと暖かく、それ以上に胸が熱くなった。

一つ不満があるとすれば、これについてイスハークが何の説明もしてくれなかったという事だろうか。

「でも、僕何も出来ないけど。お金もないし」

「あ?別に船長はお前に見返りなんて求めてねぇだろ。何せ自分の物に自分の物渡しただけだろうからな」

「そうかも、知れないけど・・・」

「だったら、精精ご奉仕でもして差し上げたら良いんじゃねぇ?」

ニヤリといやらしげに笑うジーノはからかったつもりのようであったが、タリスを見つめ続けていた拓深は真摯な眼差しで一つ頷いた。

「・・・うん。そうする。仕事頑張るしか、出来ないし」

「仕事って言われちゃ色気ねぇけどな」

色気がないなどと言われても、拓深にとってSEXは仕事でしかない。

生きる為に必要な衣食住を得る為の手段で、それ以上でもそれ以下でもなかった。

口を噤む拓深にジーノは当たり障りのない会話へと話題を移す。

昨日の夕飯は何が旨かっただとか、次の港は何処で何が楽しみだとかと聞きシェリー酒の瓶が軽くなった頃、拓深はジーノではない美声に名を呼ばれた。

「拓深、そこで何をしている」

紛れもないイスハークの声。

シェリー酒の瓶に口を付けていた拓深は、瓶を下ろすとイスハークを見やった。

ラフに素肌の上に白いシャツを纏っているだけであるが、そのシャツもイスハークの物は特別上等な物だと今は知っている。

甲板に彼が現れるとそこらに居た船員が、そして拓深の隣りに居るジーノにも緊張が走った。

拓深はそうでなくても、船員達にとってはイスハークは畏怖と尊敬の対象であるようだ。

「お酒、飲んでる」

「そんな安シェリー酒ではなく、俺の部屋ならジンでもスコッチでもワインでもブランデーでもあるだろ」

「でも、あれはイスハークのだし」

「俺の部屋にあるものは好きにしろと何度も言っている筈だ」

大またで歩み寄ったイスハークはジーノに一瞥もくれる事も無く、拓深の腕を掴むと無理やり立たせようとした。

とりあえずそれに従った拓深は、頭一つ分以上長身のイスハークを見上げる。

シルバーの髪が太陽の光を受け綺麗だった。

「なに?」

「いいから来い」

「・・・うん」

イスハークは、彼の仕事以外の時間によく拓深を側に置きたがっていた。

SEXをするではなく、ただ食事や酒に付き合わされるだけなのだが、それが拓深には不思議だった。

無茶な量を浴びせさせられるのではなく、ただ一緒にゆっくり酒を飲むだけの相手として選ばれた過去は父親を含め一度もない。

それは決して嫌な物ではなく、今回もまた素直に頷くと拓深は空同然となった瓶を手にジーノを振り返った。

「ジーノ、またね」

「お、おう」

「あまり船員と仲良くするな」

「なんで?」

「・・・・」

即答で返答があるとばかり思っていたというのに、イスハークは唇を閉ざし顔を背けた。

他の船員とは必要以上の会話をしていない。

ジーノとはイスハークにやましい話をしていない。

今だってイスハークに呼ばれれば何よりも優先するというのに、ならば何故イスハークはそのような事を言うのか、理由を言われなければ心底解りそうになかった。

とはいえ、今何故かイスハークの機嫌が芳しくないとは解り、拓深は自身の保身の為にも言葉少なくただイスハークに従った。

無言のまま腕を引くイスハークに付いて行き、梯子を二回上る。

入りなれた船長室の前まで来てもまだ腕を離しては貰えず、そのまま部屋に入ろうとした───その時。

「・・・歌?」

「なんだ?」

「歌が、聞える・・・」

それも、船員らがよく歌っている調子外れの野太いそれではなく、綺麗な高音の、女性の物と思える歌声である。

「そんなもの、俺には聞えん」

「・・・でも」

この船に女性が居ない事は知っているし、音楽の再生機がないのも知っている。

けれどその女性の歌声は拓深にははっきりと聞こえ、どこか無視が出来なくなっていた。

これは何だというのか。

腕を引き部屋へ入れようとするイスハークに逆らい、拓深は蒼く澄み渡る空を見上げたのだった。